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詩人・あおい満月という生き方について。

私は幼少の頃は、当たり前かも知れないが、「将来の夢」などというものは本当に漠然としていた。私は小学校低学年の時は、本当に食べることと、漫画にしか興味がなくて、勉強はそっちのけで、友達と遊んでばかりいた。それが、いつからだろうか。「お話を書く人になりたい。」と決心するようになったのは。あれは確か、小学校3年生ぐらいの秋頃だろうか。学校の図書館でたまたま手に取った、もうタイトルも忘れてしまったが、サーカスのアシカが出てきて、色々人間に善いことをする話だったか。私はその絵本にひどく感動して、凄く熱のこもったショート感想文を書いて提出したところ、担任の先生に凄く褒められたことから、「そうだ、私の将来の夢は、お話を書く人になりたい!」!と思うようになったのだ。それから、書店に足しげく通うようになり、まずは、自分の好きな本から入ろうと思い、漫画家兼小説家の折原みと先生の小説・「アナトゥール星伝・金の砂漠王」(ティーンズハート文庫)を読み初めて、ヒロインの鈴木結奈とアナトゥールという異次元の砂漠の国のプリンスとの恋愛冒険物語に、そのエキゾチックさに物凄く魅了されて、シリーズを全部集め、他にも、「天使シリーズ」や、1994年に映画化された「時の輝き」や、ドラマ化された「真夜中を駆けぬける」なども何度も再読したし、折原作品には、10代の頃はかなり影響を受け、とうとう私自身も、14歳の中2の頃に、「ティーンズハート大賞」に私が書いた作品を出したこともある。

詩との出会いは、というと、これも中学の頃で、高村光太郎の詩集と、「智恵子抄」だった。光太郎の妻・智恵子への深い愛情、そして、光太郎・智恵子夫妻が共に彫刻家という、共に芸術家として生きることの尊さと、苦しみ…。それが、まだ、当時14歳の私には受け止めきれない面もあったが、感動して涙が止まらなかったのを今でも覚えている。

それから私は、原稿用紙に向かい、「詩」なるものを書いてみた。まず、自分の感じたことや、思ったことを。まるで箇条書きのようになってしまったが、これがまた楽しくて、毎日毎日、原稿用紙に向かい「詩」を書いて、手作り詩集も作ったことがある。

それから高校生になって、気の合う友人と「詩の交換」などもやるようになり、高校時代は、地方の友達と、文通を初めて、そのなかで詩を送るようになって、相手も詩を送ってくれて、互いに感想を手紙で述べ合ったりもしていた。

それから地元の千葉県の短大に進学し、詩以外にも、音楽のライブやクラブにも通うようになり、そこで知り合った友人と詩や手紙を交換したり、お酒を飲むようになったり、幅を広げていった。詩の商業誌・「現代詩手帖」に投稿も始めた。(落選続きだったが。)

しかし、実際に詩の世界に深く飛び込んだのは、就職してから3年後の24歳の頃だった。当時、「詩学」という詩誌があり、そのワークショップに参加したのが本当の始まりだった。ワークショップの同期には、詩人の服部剛さん、小倉拓也さん、加藤亜由子さん、安田倫子さん、夏目ゆきさん等がいた。

そして、私が度肝を抜かれた世界が、朗読の世界である。当時私は、文京区白山にある「jazz喫茶・映画館」のオープンマイク「コトバコ」にも参加していた。そこには、朗読詩人の死紺亭柳竹さんを筆頭に、モリマサ公さん、どぶねずみ男。さん、紀ノ川つかささん、ジュテーム北村さん等、詩人たちの宝庫だった。

あの時代は、本当に素晴らしかったと思う。
それから私自身は、一時期は体調不良になり、詩作を断念したが、また復帰し、商業誌「詩と思想」の当時の編集長・一色真理(いしきまこと)氏の目に留まり、研究会にも参加し、一色先生の指導のもと、更に本格的に現代詩を勉強し、「詩と思想」現代詩の新鋭に抜擢され、書評委員も務め、去年、「詩と思想」新人賞に入選を果たした。季刊紙「びーぐる」の新人賞も獲得した。(「びーぐる」の新人)

そして、齢も40になった今年の11月に初めて第一詩集を刊行する。

私、あおい満月という人間は、文章を書くことが好きで、好きで、それしかほぼやってこなかった人間だ。一応、平日は「会社員」として働いているが、詩や、エッセイや、短歌や、言葉や文章を考えて書いている方が、私は生き生きとしている。今後のあり方としては、あまりにも書くことを愛しすぎて、「書く」という魔物に取り憑かれて、社会的に問題になるようなことを書いたりしないように、常々注意が必要だということだろうか。自由に生きるということは良いが、自由という名のもとにもモラルやルールが必ずある。その事を、忘れないように。

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