寂しさの原風景と、ノートの端切れを交換するようなこと


最近「違国日記」という漫画を読んだ。
主人公の朝ちゃんは寂しいことを「砂漠の真ん中で、ぽつーーんとした感じ」と言う。

出てくる人々の中にはいろんな寂しさの風景がある。静かな海辺、ギラギラひかるミラーボールの下、森の端の方。

自分にとって寂しいってどんな景色かというと、明かりのついていない水族館の大きな水槽の前で1人で立っていて、魚たちの世界とは巨大な水槽で隔たれていて、シンとしていて、薄暗くて、遠くで光る魚の鱗を眺めているような感じだと思った。

わたしはそういう、向こうの世界とは隔たれていて、ただ見上げているだけという時に悲しさや苦しさを感じなくて、遠くで泳ぐ魚の群れが光を反射しているのやくらげが透けているのを綺麗だなと思っていつもぼんやりと見ている。
周りに誰もいなくて暗くて静かなのは少しスンとした感じがするけど、怖くはないし、普段は気づかないようなことに気付けたりする。深くてすこし冷たくて尖った感じの手触りのものだと思う。
なのでさみしい感じがした時、わたしはそのさみしさの感触を慎重に味わってみるのが好きだ。

わたしは孤独と仲良しな方であり、逆にそうやってぼんやり役にも立たないことを考えてばかりいるので少々人の感情に疎く、思ってもみなかったところで人に迷惑をかけてしまうことがたまにあって、人間をやるのが下手で申し訳ないなと思いながら生きている。

たまに溜め込んだ役にも立たないものたちが絵になったり長めの文章になったりして出てくる。なんかこれは猫が毛玉を吐くような現象だと思う。
そうやって絵を描いたり心象風景について言葉にすることが稀に役に立つこともある。


最近知り合いと話していたら「家で1人でいるのがさみしい、孤独感がつらい」ということをぽろりとこぼしていた。
わたしにとって家で1人でいるのは巣の中にいるように安全で落ち着く事なのでその寂しさはわからなかったけど、「孤独感がつらい」というその人の感情をわからないと言って無いことみたいに扱うのは"無し"だな、と思った。


1人で行く先もわからない、尋ねる人も不安を分かち合う相手もいないと感じていること、それは確かに不安で苦しいだろうと思う。


わたしはTwitter(あえてまだTwitterと言うぞ)とかに一人で考えている役にも立たないことを投げて、誰かが読んでくれたことで充分に満足してしまうけど、そういう他愛もないことがないと確かにもっとずっと孤独だろうと思った。


話をした人は週に一度くらいしか会う機会がないし、すこし年配の方なのでSNSを勧めるわけにもいかない。
それで、他愛もないことをほんのひとことふたこと手紙に書いて感想をやりとりしたらどうだろうと思い、学生の頃ノートの端を切って授業中に交換した他愛もないやりとりを思い出し、もうこっそりとノートの端を切る必要もないので、そのままノートを交換したらどうかなと思った。

交換ノートとかいうやつを小学生の頃にやったようなやらなかったような、そういうのは確かに大人になってからやるほうが面白そうな気がする。

その人がそれを楽しそうと思ってくれるかはわからないし、その人の孤独がそれで紛れるかはわからないけど、重要なことでなくても自分の考えたことを知ってくれている人が少しでもいるという感覚は人生に必要なことだと思う。

わたしは孤独であることがわりと平気な人間だけど、人は群れで暮らす生き物なので「寂しい」という気持ちは人間らしさでもあるし、大事な感性だ。
誰かと気持ちを分かち合いたいと思うことをたまにきちんと思い出そうと思った。


交換ノートをするかどうかはまださっぱりわからないけど、できそうだったらまたどこかでその話をしようと思う。

あと、違国日記、ものすごく良い漫画なので、いろんな人に読ませて感想を聞きたい。本当にすごくいい漫画です。読んで。

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