見出し画像

犬王、AV新法、ラリー・フリント、そしてリベラリズム

 先日、『犬王』を今更ながらに見た。かなり面白かった。
『犬王』は南北朝時代を舞台としたロック・ミュージカルである。琵琶法師や能(猿楽)といった日本の庶民向け芸能の話である。それはつまり表現の話でもある。

画像1

 主人公の二人があまりに自由な表現方法によって『平家物語』を伝え、また伝えることによって「平家」の怨念・無念を浄化していくという作品だった。「人は二度死ぬ。1度目は肉体の死、2度目は忘れられた時・・・」なんてあまりにも有名な言葉があるが、では不可避な「1度目の死」はさておき「2度目の死」はどのように防げるのか・・・というお話だったと思う。つまり、その回避策が「語り継がれること」であり、そのための手段として「表現」がある。

 犬王たちまた『犬王』の「表現」はあまりに自由だった。主人公の一人は琵琶法師だが、明らかにエリック・クラプトン率いるクリームのようなブルース調、犬王はブレークダンスと当然その時代にはない表現方法で、それを取り入れるこの作品自体も全くもって自由。湯浅政明監督の作風と作品自体が見事に合致している。後半なんてほぼライブなのだが、『ボヘミアン・ラプソディ』のエイド・ライブを想起させる。熱狂っぷりがすごかった。

 ところが、南北朝時代で「諸行無常」を語るのは、権力者側からしたらあまり気に入らないことだった。そして、この自由すぎる表現方法を理由に表現規制をする。現代の感覚からすれば許されないはずだが、封建社会ではそれがまかり通ってしまう。切ない。

 「封建社会ではそれがまかり通ってしまう」・・・と書いたが、タイムリーにも権力者がそれをまかり通そうとしている。アダルトビデオ(以下、AV)がその対象だ。『犬王』を見終わった後、それを一番最初に想起した。

 この間可決した「AV新法」は、表現規制をしている・・・というより内容的には契約の話だ (もちろんその契約の話も業界との対話不足であり、混乱を生み出してしまっているとのことだが)、だがこれを発起した立憲民主党の議員が表現規制を検討している。 以下、yahooニュース (神奈川新聞社)より引用。

堤氏は「テレビや映画の殺人シーンで実際に人は殺さない」とした上で、「性行為の撮影や動画の売買を認めることは個人の尊厳を傷付け性的搾取を許すことだ。党としてさらなる対策を検討し進めていきたい」と表明した。*「堤氏」とは、立憲民主党の堤かなめ氏

 全く馬鹿げた論理である。言うまでもなく「殺人シーンで実際に人は殺さない」のは「殺人」そのものが違法な行為であり、「殺人シーンで実際に人を殺す」ことで一番問題なのは「人を殺す」こと自体であり、それを使った「殺人シーン」それ自体の問題性は副次的な話である。だからそもそも論理として次元の違う二つを比較している。だから僕はこれを見た時、この人は「性行為」を違法なもの若しくは違法にしたいのかと思った。少子化が叫ばれる中こうしたことを言うのは、コウノトリが子供を運んでくると本気で信じてるのではないかとすら思う。

 論理としておかしいのはともかくとして、これは表現規制である。「個人の尊厳」は人によって違う。だから「個人の尊厳」を権力者が勝手に定義し、そして定義した「尊厳」を基に表現手法を規制するのは、構造的に歴史上の独裁者と変わらないと思う。何より憂うるべきなのは、こういう人たちが「リベラル」を自称しているからすごい時代である。きっと彼らが室町時代にいたら、「盲目の人を見世物にするなんて!!」と言って琵琶法師を規制してたに違いない。『犬王』が「リベラル」との戦いになる。すごい、「表現の自由」の戦う相手が「リベラル」だなんて見てみたい。

 実は似たような戦いがアメリカでもあった。それを映画にしたのが、「ラリー・フリント (原題:The People vs. Larry Flynt)」である。

画像2

 ポルノ雑誌『Hustler』を規制するか否かの話である。実はこの映画でラリー・フリントが戦う「The People」とは、ラディカル・フェミニストやアメリカの保守主義の人たちのこと。キリスト教右翼である。前述の「リベラル」とは本来的には真逆の立場である。

 この映画、冒頭で映画の結論じみたことがエドワード・ノートン演じる弁護士によって述べられる。「私だってこの『Hustler』を良いとは思わない。不愉快だ。だが『表現の自由』とは自分が不愉快なものでも許容することで初めて成立するのではないか」と。これこそがリベラルだと僕は思う。だがこれを冒頭に持ってくるのは何故か。それはその後観客は延々と「不愉快」なラリー・フリントを見続ける、明らかにラリー・フリントを好人物なリベラルの救世主として演出されてない、「自由」と言ってあまりにも品性も礼儀もないことを行い続ける、「不愉快」な行為だ。つまり、観客(と弁護士)は試されているのだと思った。「不愉快」だが、彼を許容できるか否か。演出手法はともかくとして、こうした「自由」は『犬王』の二人とラリー・フリント、似てるといえば似てる。まあ『犬王』は不愉快になることはないが (ここら辺も時代的価値観の違いを上手に使っていると思う)。

 『犬王』も『ラリー・フリント』も時代時代の保守(『犬王』の時代に保守という概念はなかった)、大きく言ってしまえば「生き方」を規定する者こそが戦いの相手だった。今、日本では「リベラル」がその位置にいる。全く矛盾。しかしまあ、Twitterを調べてみるとたまにAV新法に反対するリベラルフェミニストもいる。多分フェミニストやリベラルとは僕は意見合わない方だと勝手に思ってるが、少なくともこの件に関しては、彼女たちはリベラルを貫いてて「良いな」と思った。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?