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山になる

しまだ

昔話で恐縮です。Googleができてまだ2年もたたないころ、近所の呑み屋でのこと。季節は春、酒の肴に菜の花のおひたしを頼もうとすると、注文を取りにきたお兄さんが次のように答えた。

「菜の花は今、山になってます」
「は? 山になるって、そんなにたくさん菜の花を仕入れたの?」
「いえ、山になるっていうのは、つまり、菜の花はもう売り切れ、ってことです」
「あ、そうなんだ……」

30何年生きてきて(当時)、「山になる」=「売り切れ」というのは初耳だった。知らない言葉があると気持ち悪いので、帰宅後に『故事ことわざ・慣用句辞典』(三省堂)を引いてみたのだが、該当しそうな説明が見当たらない。

あるいは職人さんたちの間で使われる隠語なのかもしれない。Yahoo!でネットを検索してみた。しかし、ここでも「山になる」という説明は見つからない。そうなると、そもそも酔っぱらって聞き間違えたのか、その店だけの言い習わしなのか、真相は「藪の中」である。

食通で知られた時代小説家の池波正太郎さん(故人)は、寿司屋で「トロ」と言うのがはばかられ、最後まで「マグロの脂身の多いところをひとつお願い」とか何とか言っていたのだそうだ。そんなわけだから、私らごときが「ガリ」だとか「おあいそ」だとか口にするのも、「顔から火が出る」というか何というか……。

ギョーカイだけで通じる隠語を相手にしゃべられると、私なんかはどうも落ち着かない気分になる。テレビ局で働く友人に、「消えもの」だとか「同録のVあるけど、貸そうか?」なんて言われたときなど、「キエモノって何? ドウロクって何? ブイって何? どうかしちゃったのシオリちゃん?」と。この際、シオリちゃんって誰、という問題は置いといたとしてもだ。

さて、「山になる」=「売り切れ」である。

繰り返す。当時はサーチエンジンといえばYahoo!かGoo、周回遅れでExcite、あまのじゃくだけがAltavistaを使っていた。まだ「ググる」なんて言葉は存在せず、ネット上で手に入る情報はずいぶん限られていた。そんな時代に、いや、どんな時代でも、相手にわからない隠語で客あしらいをするサービス業の店員は、顧客体験のデザインという観点から見ると落第だ。

しばらく後、当時勤務していた会社で一回り年上の先輩にこの話をしたところ、たちどころに謎が解けた。しかも存外のサゲまで付いている。先輩は北海道の小樽出身で、実家は水産加工会社を営んでいる。

山になる(生る)ってのはな、魚屋や寿司屋が使う言葉なんだ。魚は海のもので、山にはいないだろう。お客の前で「売り切れ」とは言えないから、職人たちがそう言うようになったわけだ。だから、もともと野山になってる菜の花が「山になる」っていうのも、言葉の本来の意味からすりゃおかしなことなの。

仲間うちでは通じる隠語、符丁、ジャーゴンを、業界関係者以外の人に使うのは控えましょうね、というお話でした。

最後に宝探し。この広告にもジャーゴンが紛れ込んでいますよ。

Photo by Hamed Shakeri

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