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小野美由紀『ピュア』読書会(2020年6月13日20時より@フェミ勉)

6月13日に行われるフェミ勉の読書会を開催します。

より作品への理解を深めるために、事前に読書会をしたいと言いだした主宰含め3人に、簡単な論考を書いてもらいました。読書会参加者の皆さまには必ずお目を通して頂ければと思います。

※注意事項です※

読書会は1時間半から2時間程度。録音をし、後日主宰が文字起こしをします。飲酒は厳禁。skypeの音量を事前にチェックして頂けると助かります(連絡先から「Echo / Sound Test Service」から音量チェックが行えます)。

柳ヶ瀬舞(@yanagase_mai)の論考
「無邪気」なフェミニズムSF――小野美由紀さんの『ピュア』を読んで

 早川書房の溝口力丸氏がこんなツイートをしていた。
『アステリズムに花束を』以降、伴名練氏の躍進や『裏世界ピクニック』のTVアニメ化発表があり、フェミニズム と百合SFについていただいた実りある批判は、今春の『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』『ピュア』の刊行により一つ応答させていただいたつもりです。今後もよろしくお願いします。 2020年5月16日溝口力丸氏のTwitterより

 私は胸が高鳴り、期待値があがった。しかし『ピュア』を読み終わると、深い失望感に苛まれた。それを詳らかにしていきたい。

「ピュア」は種としての人間のカタチをしていないのに(鱗、牙、爪等)、主人公たちは今現在の女子高生のような振る舞いをする。「前髪が乱れる」と書いてあるが鱗に覆われた、頭皮に果たして髪が生えるのだろうか……。センス・オブ・ワンダーを生かせそうな身体性の話を男女という区分に矮小化している。第二回百合文芸小説コンテスト2に参加された作品のほうが、SF的なギミックと現実的な日常をうまく融合させていたと思う。

「バースデー」。トランスジェンダーを扱いつつもTGの現状を全く反映されず、「バースデー」でのTGの概念・知識は80年代で止まっている。2020年代でこの考えかたは有害と言っても過言ではない。しかし日本のSFでTGの描写を成功させているのは、古谷田奈月さんの『リリース』くらいかなとも思う。

「To the Moon」。百合においてまたこういうエンド……。SF的な要素を抜けば、ありがちな話だと思った。百合文芸2のほうが(以下略。

「幻胎」。エディプスコンプレックスもの。もっと長ければよかったのにと思った。支配‐被支配の構造がセックスで変わるというのは、安易と思ってしまった。

「エイジ」。おもしろいと思えた作品。身体性と言葉一致しているのがとても心地よく感じ、小説を読んだという感じにさせてくれた。

総評。全体的に「無邪気」さが目立った。LGBT差別や人種差別への配慮はなく、「今の現実にこうあるから、リアリティがあるでしょう?」という安直さと無邪気さが手を繋いで踊っているような小説たちだった。著者のインタビューも読んだりしたが、「今さらそれを主題にするのか?」等モヤモヤがたまった。しかし「フェミニズムSF」や「ジェンダーSF」をしらないひとたちに向けて(「バースデー」以外)、響き、ル・グィンやティプトリー・Jrやグレッグ・イーガンなどにも興味を持って欲しいと思った。

近藤銀河(@SpiralGinga)の論考

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レロ/中村香住(@rero70)の論考

男女二元論に則った本質主義と異性愛主義の危うさ

 この作品集は、「フェミニズムSF」と評されることがあるらしい。著者自身も、インタビューの中で表題作について「「ピュア」を“フェミニズム小説”だと思っています」と述べている(https://book.asahi.com/article/13331751)。
 その触れ込みを知ってから読んだので、なるほどそう言われればフェミニズム小説と言えなくもないかもしれないとは思った。特に表題作の「ピュア」は、現在の社会における男女の権力関係を逆転させた未来世界をSFとして描いており、現実世界においては男性が言いそうな台詞を女性に言わせていたりして、フェミニズム的な風刺を感じた。ただ、この作品集を「フェミニズム」的であるとすることにはやや危うさも感じる。
 その理由として、どの作品にも共通して感じたことだが、男女二元論に則ったうえで、女性はこうであり男性はこうであると決めつけるような本質主義的な描写が多くみられるという点がある。まるで、女性と男性はまったく異なる生物であるかのように書かれていると感じた。実際それはしばしば、生物学的決定論につながりかねないような形を取って書かれる。
 例えば「幻胎」の「彼の年の重ね方は、何かを失うことがむしろプラスになるような年の取り方だった。そんなことは男にしか可能でないのかもしれないと思った。失ったことが価値になるような生き方は。年を取っても、失う機能の少ない男だけにしか」(p.175)という箇所は、まず男とは子宮を持たず出産可能でない者であるということを前提としたうえで、そのことを直接的に「年の取り方」という社会的・文化的な現象と結びつけている。そもそも男性として生きている人の中には子宮を持っている人や出産可能な人もたくさんいるが(ついこの間もトランス男性のマタニティフォトが話題になっていた)、一旦ここでの「男」はセックス(生物学的・身体的性別)としての「男」を指すのだと読み取るとしても、「年の取り方」は明らかにジェンダー(文化的・社会的性別)にまつわる話である。つまり、ここではセックスとジェンダーがシームレスにつながってしまっているように思える。そして、それがいかに危険なことであるかは、フェミニズムに携わってきた人であれば誰しもが知るところではないだろうか。
 この危うさが前景化しているのが、主人公ひかりと「性変容手術」なるものを受けて男に「なった」親友・ちえとの関係性を描く「バースデー」である。ひかりは、女性の身体を持ち社会的にも女性として生きてきた時期のちえのことを指して、「うちらは互いのことはなんでも知ってて、うちら二人でいれば怖いもんなし、って思ってたくせして、ちえは全く、別の世界を見てた」(p.82)と言う。これは、社会的には女性として生活していたとしても、性自認が男性であれば、見える世界は全く違うという想定なのだろうか。しかし、ちえの性自認が当時から男性であったとしても、「うちらは互いのことはなんでも知ってて、うちら二人でいれば怖いもんなし、って思ってた」との事実は動かず、変わらないのではないか。さらに、ちえはちえで、「なんかさ、男と女って、もしかしたら全然別の原理で動いてんじゃないかなーって思うようになったかも。違う力で引っ張られてるってゆーか。……社会的にも、生物的にも」(p.83)と言う。「男」か「女」かというだけで同じ一人の人間がまったく根底から変わってしまったかのような書き方に、違和感を覚える。
 さらに、これも「バースデー」において特に強く現れる点だが、異性愛主義、つまり異性愛が「ふつう」とされていることを感じた。「ちえだって健全な男子だもん、自分に好意寄せる女子がいれば嬉しいよな」(p.76)という素朴な想定もなかなか辛かったが、極めつけはひかりが「もし、私が明日、突然男になっちゃったらどうする?」(p.96)と訊いた後の、ひかりに好意を寄せるはたやんという男性の回答「俺が女になる!」(p.97)である。これはあくまでも思考実験であるから、現在のひかりの性的指向がどうであるかとは関係ない。なぜ、男性のまま、男性になったひかりを愛するのではいけなかったのだろうか。ひかりは性別が変わっても性的指向は異性愛のままという想定だったのだろうか。それならどこかに一言そういう補足を書いてほしいと思ってしまった。性自認と性的指向は別々のものであり、トランスジェンダーの人の中にも同性愛者(トランス後の性別と同じ性別を恋愛対象とする人)はたくさんいるということは、誤解されがちだが重要な点として、近年よく話題に上がっているはずだ。そうしたセクシュアルマイノリティにまつわる言説状況を踏まえて小説が書かれているようには、正直思えなかった。
 実際、著者は「バースデー」に関して、読書会形式の記事の中で「トランスジェンダーの恋愛を書きたかったのではなく、親しいと思っていたひとが、あるとき全然違ったと気づいたとき、どうやって関係を築くかというのを書きたかった。だから、トランスジェンダーの方への取材とかはしてないんだ」と述べている(https://mirror.asahi.com/article/13365829)。確かに、この小説でちえが使ったのは未来SF世界での「性変容手術」という技術であり、XX染色体をXY染色体に書き換え、記憶も人格も元のまま肉体の性別だけが変わるというものだそうだから、現在の社会で実際に行われている「性別適合手術」とは異なる。しかし、この小説をトランスジェンダー当事者が読めば、明らかに自分をとりまく現象と似た現象が書かれていると感じるはずだ。マイノリティに類似する物事を描く時には、それがフィクションであれ、もしくはフィクションであればこそ、他者表象がもつ当事者からの表象の横奪の問題をつねに考え、慎重に描かねばならないと思う。当該マイノリティに対する社会的なステレオタイプを再生産することにつながりかねないためだ。フェミニズムSFや百合SFを標榜するのであれば、なおのことである。



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