見出し画像

ババ草物語④

 母は裁縫は得意だが、料理はからきし下手な人だった。カレーにたこ焼きを入れたり、粕汁にベーコンを入れたりと、チャレンジャーではあるけれど、結果、見た目が悪く美味しくない。「今日の晩ごはん何?」
と聞いて「カマボコ。」と答えるような人だった。
だから新米奥さんの私は、料理の基礎を長女に教えてもらった。姉は長崎出身の男性と結婚したので、亭主関白の九州男児に一生懸命仕えていた。長崎に帰った時にお義母さんが、夕餉の支度をする前に「さぁ〜うまいもん作ってやるからな!」と言っていたと、とても羨ましそうに語っていた。私たちは共通して、母からそういう言葉をかけて欲しかったのかもしれない。
姉はこのお義母さんのように、お料理上手でおもてなし上手な人だった。お正月はいつも姉の家にお世話になり、姉が作った手料理をよばれるのが、とても楽しみだった。私が19歳で長女を出産した時も、退院の日、姉夫婦が迎えに来てくれた。長女夫婦には本当にお世話になった。
 私にも長女と長男が生まれ、若いパパとママなりに楽しくて温かい家庭を築いていた。長女一家とは特に仲良く家族ぐるみで付き合っていた。従兄弟になる子供同士も気が合い、会うのが楽しみだったようだ。
 次女夫婦は子供がいないので夫婦仲良く、大人だけならではの静かな暮らしを楽しんでいた。義兄さんが塾の講師をしていたので、私の息子が受験の時にはお世話になり、見事、志望校に入れた。
 妹は夫の実家である岐阜に帰り、お寿司屋さんを営んでいたご両親のお店を手伝った後、独立して割烹を開店した。店構えも立派で、板前の経験を積んできた義弟の料理はとても美味しくて、コース料理などはとても評判が良かった。
 父は熊本で、弟が営む会社に勤めながら、再婚した女性と楽しく暮らしている。夏になると、この弟、そう、私達にとっては叔父さんの別荘に行くのが恒例だった。久しぶりに会う父は相変わらず陽気で、再婚した為、私達のお義母さんになった人は、元料理教室の講師の腕前を披露してくれた。昭和の初めに名のある方のお妾さんの子とあって、それはそれは気位が高く、イケすかない人ではあったが、父を大切にしてくれていた。私達四人姉妹も、嫌いながらも感謝しながら毎年夏になると会いに行った。
 今思えば、叔父さんの力が大きかったとつくづく思う。夜逃げ同然でやって来た兄夫婦を受け入れるには、相当大変だったと思う。血縁というのは凄い。
 叔母さんは、私達にこっそり愚痴を言いながらも
この厄介な義兄夫婦の面倒を見てくれた。会社を起こし成功させて、別荘まで持った夫には逆らえない様子だった。
 さて、実の母は昔から働き者だったが、再婚してからも働きながら、夫婦二人の生活を送っていた。この母は、家庭の中に楽しいことを見出せない人だったのだろう。家の中では相変わらずイライラしていた。お酒が好きで酔っ払っては醜態を晒す義父に文句ばかり言っていた。それでもよく夫婦で旅行に出掛けていた。義父は母に、お酒では迷惑をかけてもお金の苦労はさせなかった。三女である私達一家をとても大事にしてくれて、特に娘をとびきり可愛がってくれた。子供たちも実の祖父のように慕い、楽しいイベントを一緒にたくさん経験した。夏のキャンプや、七五三、運動会…。子供たちの思い出の中には、このお爺ちゃんがいっぱい詰まってることだろう。60歳という若さで逝ってしまったけど、血が繋がっていなくても、こんなに愛情を注いでくれた義父のことは死ぬまで忘れないよ。

つづく           



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?