明らかなようで曖昧なこと、曖昧でいて明らかなこと❶

フェルデンクライスメソッドというものを教えています。

さてそれはどんなものか、このメソッドの指導者でも、どういうものか言葉で説明することによく苦労しています。

その理由のひとつはこのメソッドが、明らかなようで曖昧な事柄を扱っているからとも言えると私は思います。

この方法論の創始者モーシェ・フェルデンクライス博士(1904ー1984)の最後の著書に、Elusive Obviousという本があります。

Elusiveは、とらえどころがないとか曖昧であるとかそんな意味です。
Obviousは、よく見える、明白、明瞭といった意味です。

曖昧で、明らか?この題名だけでも、既によくわからないですよね。

でも考えてみると、世の中に本当に明らかのものはあるのでしょか?
ひとつの言葉だって、それが本当に何を表しているか、どんなものであるか、みんな納得していますか?またはその意味を共有できているのでしょうか?
例えば、健康とはなにか、幸福とはなんでしょうか?
それは、’obvious’明らか、当たり前のように思われていることかもしれないですが、健康や幸福について、みんなが納得するような説明は実はほとんどないような気がします。
それらの概念を定義したらどうでしょう、健康はこのようなものであるとか、幸福とはこのようなものであるとか、よく行われていることですが、それらを定義した途端に健康とは、幸福とはこうでなければならない!というような、強迫的なものになっていきはしないでしょうか?
そうすると、健康や幸せといったものの本当の姿から遠ざかってしまわないでしょうか?

これはひとつの例ですが、世の中はこのようなことで溢れていると思います。当たり前‘obvious’ の様に思われていることも、それがどんなものであるかは実はよくわかっていない‘elusive' な事が多いのではないか。

私たちがいま生きていることは実に不可思議なもので、この時代に人として生まれて、この地球上で、ある人と出会って、家族や友人同士になるとか偶然とは思えない奇跡のようなものだと思います。

ところがその事に慣れて、生活していることや環境が‘当たり前’のように感じてしまうと、だんだんそれを大切にしなくなってしまったり、丁寧じゃなく扱ってしまったり、雑に生きてしまったりするのかもしれません。

実は全く当たり前のことではないのに。。

私たちの普段の行動も、当たり前の様にこなしていて、実はどのようにやっているか自分で気づいていないことが多いでしょう。

フェルデンクライスでは身体がどのように動いているかなど、今に注意を向けていきます。

丁寧に動きながら注意をむけていると、徐々にどのようにやっているか感じられてきます。そうすると心地よく、動きの範囲や容易さが大きくなるということも起こってきます。

色々なものが明晰になったような感じがするかもしれません。普遍的な道理の様なものをなにかわかったような気がするかもしれません。例えば呼吸はこんなものだとか、この動きはこれか!とか

それもとらえどころのないもので、なにかわかった気になっても全然わかっていなかった、まだ先があったと言うこともよくあります。

でも、その気づいたことを一つの答えであると固定しないで好奇心を開いていると、留まらずどんどん学び続けていくことができます。それはとても楽しく、面白い作業なんです。

あらかじめ答えがある訳ではありません。でもそんな過程を通して、明らかで当たり前‘obvious' になったことは、当初の当たり前‘obvious' とは全く違ったものになっていると思いませんか。

そんなことをフェルデンクライスではやっています。

一緒に学んでみませんか?

AraTetsu

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