見出し画像

こどもの日々


前職、私は営業だった。3年間担当したある顧客は月1で定例会を行っていたが、だいぶ僻地の事務所だったため往復4時間かけて訪問していた。道中、一緒の先輩3人はずっとこどもの話しかしなかった。ちょうど1歳~4歳児を育てていたので、話しやすかったのだろう。いつだか、それはあなたに対して失礼じゃない?だって全然話題に入れないし、あなたは結婚もしてないでしょ?と言ってくれた別の先輩もいた。みんな男性。ひとはいつだって共通の言葉を探してしまう。


あるとき、友人から年賀状が届いた。学生時代から知る中で結婚式にも(めずらしく)出席し、お祝いもあげた。たしか25,6歳だったと思う。赤ちゃんがうまれました、とわかる年賀状だった。写真もばっちり。たぶん生後1週間とか。私はそれをみて吐きそうになって、破りたくて、でも捨てられず、棚の奥にほうりこんだ。ちゃんと返事は出したとおもう。翌年忌引きだったので、年賀状などのやりとりは以来していない。ひとの幸せを祝えないっていやだな、と自己嫌悪に陥った時期だった。


オロナインのCMを知っている人はいると思う。大人の視点で働くてのひらをずっと映していく。こどもにふれあう場面が多く、後半幼稚園くらいのちいさな子と手をつなぐ場面(ランドセルの小学生だったかも)が映り、私はここで泣いてしまった。電車のデジタル公告だったのでギャン泣きはできなかったが、みた瞬間つらくてうつむいたのをおぼえている。同じ理由でパロマの広告も苦手だ。あちらはもっと昭和感というか、4人の家族、ジジババ、マイホームといった印象が強いから。


年賀状の彼女をふくめ学生時代の友人たちはアラフォーのいまも仲良くやっている。私をのぞき全員結婚し、こどももいる。これから生まれるこどももいる。親子2代でつながっていけるし、助け合いもできるのでいいことだと思う。何度呼ばれても(彼らが結婚する以前から)同窓会にはいかなかった。生きる目的も違うし、私はずっと自分のために働いて自分のために時間をつかいたい。そういうひとはあまり周りにいなかった。


こどもは好きだと思っていた。長女で年下のいとこたちを世話するのも、下級生の面倒をみるのも得意だった。けれど実際、こどもを産めるか育てられるかといった次元になると、別だ。よくこども好きに間違われるけれど、私は「こどもを連れた親」が好きで、彼らには手を貸したくなる性分である。少し歪んでいるのは自覚している。そのうえ精神的マゾなのでこういう日にVERYを買って読んだりする。VERYのキャッチコピーは「基盤のある女性は、強く、優しく、美しい」基盤とは家庭だ。夫でありこどものこと。きっと手に入らない、入れようとも思わないけれど他人の庭を見て楽しむ、そんな娯楽があったっていいではないか。


きのう何食べた?読んで1番ショックだったのは「ひとり乃至はパートナーふたりで生活すると精神年齢が30代から進まない」という、避けられない事実。こどもがいないからよけいズンとくる。親をやってるひとと話してると私には考えが至らないことも多々あり、自分以外に責任を持たないことの逃げって凄いなと思う。仕事中の会話ひとつ、他人への気遣いひとつ、自分がいかにガキか気づかされることもある。自分と半径5メートル以内しかつかめないのに、私に未成熟のだれかを育てるなんて無理だ。ずっとチャレンジしたかったけど。社会の手足になるならまだしも。ユニセフに寄付して遠い国の子供を援助する方がなんぼか向いているのだろう。昔から親にならない人間は足らないって言われたけど、確かに視界は狭くなるのだと、気づいた日だった。親になったひととは歯車が少しずつずれていくのかもしれない。その分、新しい発見もきっとあるはずで。あきらめずに、ひととの付き合いの幅を広げていこう。


写真素材


いただいたサポート費用はnoteのお供のコーヒー、noteコンテンツのネタ、映画に投資します!こんなこと書いてほしい、なリクエストもお待ちしております。