働くということ

働くということはとても辛い。
毎日必死に働いて得ることが出来る賃金は使おうと思えば半日で使える量。
どれだけ必死に生きようとも、「働く」という事実からは大多数の人間は逃れられないのだ。

来年から、僕もその大多数の1人になってしまう。
既に働いている人達はどんなに凄いことをしているか自覚はあるのだろうか。
僕はバイト中ほぼ毎回人生について考える。
この労働の果てに得れる数千円はこの時間を有効活用できない自分への失意感を紛らわすための恣意的行動なのであって、真に思慮深い聡明な方々は僕のように行きたくないバイトをせずに自分の能力を活かした短時間でがっぽり稼げる仕事をしているのではないか。と。

誰かから愛されるには誰かを愛する必要があるように、誰かから賃金を頂くには対価が必要である。
その対価は労働であったり、技術であったり、
情報であったり。
選択肢は無数にあるはずなのに自分の知識、人生を活かした仕事をする人はほんのごくひと握りである。
僕の夢は何かを創る仕事だ。想像し、創造する仕事につけたら、僕は給料なんて一生初任給でいいとすら思っている。
最悪な最低なこの感情を癒してくれる作品をいつも探している。
しかし、それは自慰にしかならない。
己の自己承認欲求やパンパンに膨らんだ自意識を宥めようと必死なのである。
前回の日記で書いたバナナフィッシュもその一例である。
自分の不甲斐ない生き様から逃げるように作品に没頭し、想いを馳せる。
事実は小説よりも奇なりという言葉のようにはいかず、事実は凡庸で退屈な繰り返しだと言うことを、21歳になり実感しつつある日々だ。
明日は何か起こればいい、明日こそ。と思いながら今日をやり過ごしている。
満たされぬ欲求とともにこの悲しい猿は死ぬのだ。





親に頭下げて1万貰えた北岡家の癌、僕です。

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