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1964年生まれMtFでイスラーム教徒です。

60年代の学生運動を早稲田の夜間でやってた社青同の父親と共産党の母親の間に名古屋で生まれました。父はもう20年位前に自殺してます。母はまだ生きていて母の建てた家で同居しています。弟が結婚して家庭を少し離れた場所に持っています。

保育園児の頃にリボンの騎士のアニメを観て自分が女の子というか姫だと思い込んだ。

父の統合失調症発症により母と父の両親との間の衝突を目撃したことにより心が壊れた。その時のことを母は私は泣いていたのに母に「泣いてないから心配しないで」と言ったそうです。弟は祖父母を睨みつけていたそう。当時私は4歳くらい、弟は1年半下です。

結局父は長期入院して働けなくなったのです。母は3歳までは母親が育てるという信念に従い私が5歳、弟が3歳になるまでは仕事をせず育児に専念。その時は母方の祖母と伯父家族が同居する家に住んでいました。その頃で覚えているのは藤色のタオルケットがお気に入りだったことと講談社の松谷みよ子選の日本昔話全3巻が好きだったこと。園児の頃からほぼ文字だけの本を読めました。

5歳で年長組になって桑名の母の姉夫婦に昼間は預かってもらって母は名古屋市公務員保育士として働き始めました。桑名ではお寺がやっている保育園に通っていました。伯母に連れられ弟と保育園に行く途中の金木犀の花の香を覚えてます。その頃は心の状態は小康状態にありました。

さて小学校に上がるにあたって母は祖母の家の近くに祖母や桑名の伯父から借金して小さな庭付きの家を建てました。

さて小学校に通い始めると入学早々いじめっ子に目を付けられたりして早生まれで体力ないし、そもそも暴力的なところが全くない子供だったのでどうしようもなく。それに姫だし。学校はあんまり行かないで家で籠っていました。マットレスを三角に折ってトンネルみたいに中にお菓子を持ち込んだりとか。これもリボンの騎士で母后が塔に幽閉されてたことに影響されてたかも。

この頃私の興味の中心は近所の同じクラスの女子。最初意識し始めは彼女が当時の風習である休んだ子に給食のパンを持って来たこと。その時彼女は「ずる休み!」と言ってたらしい。母の言うことには私には聞こえないように言ってたから○○ちゃんは優しいねと。えっ?それって意地悪なんじゃないのと思ったのだがMっ子である私は彼女が好きになっちゃったの。その後、どういういきさつであったか覚えていないのだが彼女の家の庭で遊んだりもしてた。多分近所の男子に連れていかれたのではと思うのだけど。陰キャの自分ではそんなの出来そうにないから。他にも彼女には教室で噛みつかれたこともあるの。残念なことにその場面の記憶がないのだがうちに帰ってから母に○○ちゃんに嚙みつかれたと言ってたのを覚えている。結び付けられるのかどうかあいまいな記憶では私が第三者の同級生に関する質の悪い冗談を繰り返したのを女の子に怒られたような。。。これが彼女だったかどうかがはっきりしないんだけどそういう関係の女子は多分この子だけだったんでね。多分そうかな。この子の父親はうちの母が小学生の時教育実習で来たとか色々な因縁っぽいものがあった。だから運命の人かと思っちゃったんよ。

三年生に上がると二学年下の弟も小学校に通うことに。チーママ自認なので責任感的に一緒に通学。いじめは依然としてありました。そのせいか三年四年生の記憶があまり残っていません。実は40歳過ぎた頃弟の妻から母経由で聞きましたが弟は私をいじめた子に仕返しに行ってたらしいです。弟は両親に似て漢気があるタイプです。特に4年生の記憶がほとんどない。幼馴染女子に関してこの頃彼女が私に絡んできた最後のエピソード、彼女の家の近くを虫取り網持ってうろついてたら彼女が近づいてきて網を取り上げ水カマキリを救って渡してきたん。これはどういう意味なんだろ?好意があったと思っていいの?彼女のすることは性別が逆であれば男子が気になる女子にちょっかい出してると解釈になるけど私が男子で彼女が女子なの。それに彼女がずっとそういうスタンスの子だったら違うけど小学校高学年から高校まで彼女は大人しい女の子に見えていたのでどうなの?今でも悩むよ。

五年生になると読書好きで物知りだということで担任の岸先生という女の先生に重用されクラスである程度の地位を確保出来ました。そして話は前後しますが四年生くらいに自分が男の子に好意をもっていることに気が付きました。その頃は体育が出来てイケメンな子がタイプだったようです。

小学校の間、夜寝るとき0自分がお姫様でどこか(地球じゃない惑星っぽいイメージ)に捕らわれてるとか、自分が宇宙人なんじゃないかとか妄想してました。教室でも低学年の時は椅子に座って妄想的なものに浸っていました。おませさんだったのでMっぽい妄想も入ってた。

六年生の終わりに声変わりがあったんですけど低くなるのでなく高くかすれたような声になりました。

そして同じ町の公立中学校に上がりました。そこで担任の体育教師に声が高いこととかいじられて非常にストレスを感じました。アトピーがひどくなりました。そして周りの特に男子から保護対象的に扱われるようになりました。自認のように姫扱いを受けられるようになってきたのです。特定の男子に腕絡ませたりしてましたね。中一の時はK君、中二の時はW君。三年の時は特にいませんでしたが。

高校は中三の担任に勧められていた地域の進学校より一つ下のレベルの公立校に進学しました。理由は多分通学が楽だと思ったから。この選択が結構よい方に行きました。

高校では最初やっぱり、いじめられたんですけど勉強以外出来ないので内申点合計低いの問題もあり、それゆえ学力としては圧倒的に他より良くて、学力テスト学年トップほぼ独占したりとか、何考えているのかよくわからない不思議ちゃんタイプの今でいう男の娘ということで学年超えて注目を集めるようになり、結構ホントに姫扱いになりました。廊下で一人で外見てたりとか。誰か女子にあの子自殺するんじゃないかと先生に注進に及んだ人もいたそうです。エキセントリック志望の女子男子に付きまとわれたりとか。それから小川君っていう恋人もいました。彼の方がホントどう思っていたかわからないんですが私から見てこの人は私のことを恋人扱いしてると思えるような言葉をくれました。結局50歳過ぎた今私にとってちゃんと恋愛だったのは彼だけだったかなと思います。彼は彼女扱いの前に教室に座ってぼんやりしてた私に近づき「お前今日はあの日なのか?」と言いました。これMtFキラーですよ。すごいセンス。お前は女だと思っているよっていう意味ですよね?それも笑いものにするためじゃない。他の男子に聞こえるような言い方ではなかったんですよね。

これは中学校の頃から言われてたんですけど、明らかに社会性に問題があるという見られ方をしててこの子はどうやって生きていくんだろうという心配をされてましたね。高三の時は心のバランス崩してよく休んでたりとか校則に従わず髪を伸ばしたりとか。結局私は高3の時には髪を伸ばす、補習完全無視、好きな時に連絡せず休むという特権を持つことになりました。保坂展人や外山恒一よりも完全なる管理教育に対する勝利を収めたと言っても過言ではないかな?でも完全に姫として君臨したてん。一生で一番幸せだったのにね。なんでそんなに悲しかったんだろ。

大学は地元の名古屋大学理学部だけ受験して受かりました。高校からはもう一人工学部に受かった男子がいました。

でも名古屋大学は結構暗黒時代、まだパッシブスキルしかなく受験勉強が終わり性欲の解放された男子大学生の注目を浴びることも出来ず三年生までは勉強だけの地味な大学生活でした。それから自分、人に言われるまでもなく会社員とかは無理っぽいと思ってたのですが自由業系になれそうなの研究者系かなと思ったのも理学部選んだ理由なんですがGW前には研究者無理って思いました。理学部あるあるですが。

四年生のゼミは代数学の松村英之先生の下に付きました。先生は私が変なのに気が付いて一人部屋に呼ばれて会社員になれるのかとか結婚はどうするのかとか聞かれましたね。どうも自分で思っているより周りから勉強理解できていると思われていたみたい。ゼミは他に男子一人、女子二人でしたけどその子たちに院行けばいいのにとか言われましたね。先生にはゼミにも参加してた日比さんという当時講師の人経由でかながえは分かっているみたいだぞとか言ってたとかね。日比さんが名古屋大の院には受からなくて浪人までして博士号取った話とかしてくれた。それも先生の差し金かもしれないけど。

当時弟が二年浪人中でしかも早稲田大学行きたいとか言ってたんですよ。弟とは二学年違いなので大学院と弟の東京での私立大学って無理だろうと思っちゃった。うちは事実上母が名古屋市の公務員保育士で稼ぐだけだったの。父は働いていたけど薄給の浪費家で頼りにならないし。今考えれば奨学金貰って行けばよかったと思うけどね。その後奨学金返すほど稼げないのかとも思ったしね。世渡りが苦手で精神状態も良くなかった。これは20歳の時に幼馴染女子に手紙出して返事がもらえなかったとか高校時代彼氏と一回だけ東山線で会ったきり会えなかったりとか失意の中にありましたので。

就職なのですが四年生の夏休み直前まで何にもやってなくて進路指導の教官に早くやりなさいと言われてようやく地元の三菱系一社と富士通系二社に見学行って結局富士通の通信制御系の会社に入りました。まあそこでも面接で精神は大丈夫なのか的な言われたんですがまあ大丈夫ですとしか答えようがなく。その時にもうちょっと考えた方が良かったのかも。。。

愛知県、地元の富士通だったんだけど結局川崎の中原ビルという所でOJTやることになりました。結構楽しかったです。最初の一年は。思い出としては6月頃の宴会で言われるままにカラオケで女性ボーカルの歌を一人で歌いまくって最後におニャン子の歌って次の朝フロア中に噂が広がってましたよ。変な子だってみんなに思われた。

一年目の終わりに愛知県の支社に戻り実際の開発に回されました。最初は65系の8ビットアセンブラでの開発。ですが秋になると開発が遅れていたKDDの仕事、言語は286アセンブラ但しリアルモード。これがすごい大変で徹夜が週一とかで。さらに新宿のビルで顧客の研修を受けるところに出張。半年くらいまともに太陽にあたらないような仕事が続きました。私の自己評価ではプログラマーとしてはともかくデバッグには結構役に立ったんじゃないかと思っています。

年が明けて春ごろにその仕事がひと段落して愛知の支社の方に戻りました。精神は高揚していたんですが私はかなり疲弊しているように見られてわりと暇な部門に回りました。それが却って良くなかったのか夏ごろに大阪に二週間ほど出張して帰ってきた後、会社に行けなくなってしまいました。母に付き添われ国立名古屋病院の精神科を受診しました。幼児期から妄想浸ったり精神おかしかったと思うんですがこの時が初診日。結果的に今これで障害厚生年金2級もらえて生活が出来ています。偶然なことに主治医になった先生は父親が最初に見てもらったのとおんなじ先生でした。

一か月休んで復帰したものの精神がうつ状態で何もできなくなっていました。それで二年くらい行ったり休んだり繰り返して結局1991年6月に退社しました。その時は普通女子社員か定年退職の人しかもらわない花束貰いました。

どうしようかと思って大学の松村先生に報告に行って、心理学かなんか勉強してみたいとか話したんですが帰ってきたら新聞に静岡大学院の数学の募集が出てて次行くとき、ここ受けたいですって言って先生の推薦状もらって受験したら合格しました。

それで二年間静岡大学の傍に下宿して修士課程に通いました。勉強はちょっと大変でしたが指導教官の浅井先生は面倒見がいい先生でなんとか修論書けて終了できました。そしてこの頃、生き方に悩んでいたこともあり肉を制限したりしてました。さらに精神科の薬を引っ越したことで止めてしまっていました。そのせいなのか変なイメージを見るようになって未来のこととか過去のこととか。

1994年春、静岡大学院を修了してなかなか就職が決まらず結局秋葉原の派遣が主の小さい会社に就職したんですが当時のPCソフトウェア開発はあまり向いていないのかストレス強く感じ社長とも合わず8月に辞めてしまいました。

そしてPC雑誌に載っていたPC通販の会社に応募しました。そしたらそこは甲府の百貨店の副業みたいな部門でした。甲府に引っ越して働くことになりました。その仕事は一人を除いて人間関係も良くここなら続けられそうかなと思ったんですが。静岡時代から引き続き幻覚的なイメージを見続けていました。

決定的なのは六本木かな?宝石販売の手伝いに行かされたんですがそこでのことを秋葉原の会社に居たとき見たのがフラッシュバックのように蘇りました。そして手伝いから甲府に帰った後11月初めに世界が救われるという期待がいきなり降りてきて会社を午後に飛び出してまず甲府をぐるぐる、それからJRの特急で新宿に向かい夜の新宿をぐるぐる、結局三鷹のカラオケボックスで所持金なくなって警察に保護されました。翌日両親が迎えに来て愛知県に戻り一日おいて父も入院していた名古屋市の精神病院に入院することになりました。

その数日間はすごい多幸感に包まれ、入院後、一人で演劇みたいことをやったりしてすごく興奮していました。世界が救われるんだとか、時間の意味が変わるとか神の存在とかそんなようなことを感じてました。統合失調症的に誇大妄想的なもののありましたけれども。

一か月くらい面会も出来ず保護室にいたようです。保護室に居たこと覚えてて共用部分で何度も演劇ぽいことをやったりとか。

入院生活で患者とかスタッフに多幸感から来るのか初めて人に心を開いた感じがありますね。歌番組でミスチルのイノセントワールドとかアニメのセーラームーンSとか忍空とか観てましたね。セーラーサターン土萌蛍に自分重ねたり。

1994年から95年は松本サリン事件から始まって阪神淡路大震災、地下鉄サリンとかすごい事件が連続して世紀末っぽい感じがしてましたね。その間私は多幸感に包まれてて安心しきってましたけど。そして4月頃退院しました。多幸感は結局数年続きました。なんかシンクロしそうな感覚と共に。

それから50歳過ぎまで20年間くらい病院のデイケアとか通うだけの生活でした。最初のうちはすぐに世界の終わりが来てみんな救われるんだと思ってましたので特になにもしようとはしてませんでした。たまに求職活動もしたんだけど統合失調症ではなかなか見つからず。

しかし今度は911の前後に暗転して世界の終わりが悲劇として来る、地獄的な永遠の懲罰を感じるようになって再び入院、一か月で退院また一か月で入院。今度はすごく苦しい入院生活でした。最初の入院より長引きました。ちょうど愛知万博がやってた頃チケット買ったけど行けませんでした。

それで懲罰感、主治医にはそれは世界没落思考という統合失調症の陰性症状だと言われましたけど。それが退院後も数年続きました。

そういう感覚が薄れてきて、50歳過ぎてきっかけはテレビでマツコ・デラックスさんを観た事だったかもですけどゲイバー行ってみようと思ってゲイ・イエローページで見つけた名古屋のUnDevideってゲイバーに行きました。そこでマスターに話聞いてもらって私はゲイではないなと思われたのか店の近所に引っ越してきたQueer+sっていうミックスの店を紹介されました。

最初はQueer+sのLGBTカフェイベントに行きました。いきなり化粧していったんだけど出来はひどかったと思う。

そのQueer+sはセクシャルマイノリティだけじゃなく政治社会活動系とかの人も来る店で、メイドの格好して名古屋のレインボーパレード参加したりとか社会政治系の街宣とかもやり始めて。

その店のマスターがイスラームのこと詳しくて話を聞いて、さらに内藤正典氏の「イスラームの怒り」を読んでイスラームに対する共感を強く感じるようになりました。そして2016年の11月に私はトランス女性ですが入信したいですとメール送って名古屋モスク行って当日に信仰告白して入信しました。

アル・ファーティハというクルアーンの最初の章を覚えて入信証明書をもらうんですがイスラーム名をどうするかというのをネットでつながったフランス在住のムスリムに相談したらファーティマという名前を勧められました。預言者ムハンマドさまの娘の名前というのでちょっと迷ったのですがそれに決めました。今ではとてもよかったと思います。ファーティマはスンナ派、シーア派問わず好まれるイスラームの女性名です。ただ今は外国人ムスリムに名前聞かれるとちょっと困るね。相手が過激派みたいな人だと怒るかも?

それから今コロナでやってませんけど大学生とか大人もあるけどセクマイイベントとか反差別とそういう活動に顔を出すようになりました。

トランス女性でムスリムっていうことでどう思われてるか? わりと普通に受け入れられてます。礼拝は男の部屋で後ろの方で礼拝します。なんか言われたのは名古屋でピンクの服を男が着るのはおかしいっていうのとか子供たちにあの人変じゃないとか、旅行の途中で寄った浜松のモスクであなたには女のジン(火の精)が憑いているから神様に祓ってもらうようにお願いしましょうとかいうのがありましたね。怒られることはないですね。

そして現在はモスクで頼まれてエジプトの高校生とシリアの中学生の家庭教師やってます。(2023年時点)
もちろん日本語しゃべれる子たちです。なんか人生いろいろあるなと思います。それから夜寝るときは小川君と幼馴染女子のこと考えてる。小川君に最後に会ったのは大学に入って名古屋の地下鉄でその時谷山浩子さんのアルバム貸してって言われてはっきり返事しなくてその後なんで電話番号交換しなかったんだろうって後悔してそれっきりになっちゃった。1983年大学2年で谷山さんもCDで「たんぽぽサラダ」出したのでその時ならCD貸したのにまだアルバム時代で持ち歩けないなって思っちゃった。

各種エピソードの詳細は男の娘姫伝説シリーズに詳細があります。

#自己紹介


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