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「魔の槍ビルガ」エラ・ヤング

若き英雄フィン・マックールはサウィン(ハロウィン)の夜タラの王宮を焼き払いにやってくる妖精ミーナの子アリンに立ち向かう。アイルランド神話をもとにしたファンタジーから。

***

 フィンの背後で砦堅きタラは闇に身を潜めていた。王がそう命じたのだ。どこにも灯心草の小さなあかりひとつ見えない。もし今夜、炎がタラを照らすとすれば、それはミーナの子アリンが燃やす火だ。北からミーナの子はやってくるだろう。いままさに迫っているかもしれないというのに、フィンには槍がない! 狼のように油断なく、目は暗闇を探り、耳は静寂を探った。姿が見えるようになる前に、かろうじて聞こえるほどのかすかな物音で、何者かが忍び足で近づいてくるのがわかった。
「ウーアルの子よ」声がささやいた。「わたくしです、フィアハです、槍をお持ちしました」
「ありがたい」フィンは答えた。「この手に渡してくれ、今夜の武器としよう」
「これはまことにおそるべき槍で、ビルガと呼ばれています。すっぽりマントで覆ってきつく巻きつけ、抑えていますのに、穂先が跳ね、震えているのがおわかりになりますでしょう。魔物が悶えているのです。お父上はかつていちどだけ覆いを取りましたが、そのとき槍は――あやまってお手から飛び出して――お父上が大事に思われていた戦士の生き血を飲み干してしまった」
 フィンは逸《はや》る手で槍の柄《え》を握りしめ、覆いの上からそっと穂先を撫でた。
「たしかに生きている。だが覆いはただの絹の包み布のようだが」
「槍を投げようという時までお取りになりませぬよう。世にも不思議な織物でできており、親指に嵌めておいでの指輪に通すことができるほどに薄いものです。お父上が槍を奪ったのと同じ宮殿からもたらされました。鋭い穂先にもすり切れず、長いあいだしまわれていたのにほころびてもいません。色をごらんいただけないのが残念です。これは妖精の国のマントなのです」
「母上も妖精の国から来られた。こんなマントをお持ちだったのかもしれないな」
「今夜の務めよりほかに気を取られてはなりませぬ。眠りが目蓋を閉ざさぬかぎりは、わが心はあなたとともに見張りをいたしましょう」
「そなたの心はもちろん、そなたの仲間であった死者たちも、ともに見張っていてくれるように。気をつけて立ち去れ」
「勝利と祝福がありますよう、ウーアルの子よ。もしもこの夜、あなたのお命が失われることあらば、コンガの子フィアハは忠実であったとウーアルさまにお伝えください」
 フィンはひとり残された。手の中で槍が震え、身悶えした。暗い平原が暗い地平線まで広がっていた。今宵はサワンの前夜、だれもできることなら外に出ようとはしない。柵をめぐらした砦も枝を編んだ粗末な小屋も、ひとつ残らず扉を閉ざし閂をかける。いっぽうでダーナの一族の砦がひらかれる。山の宮殿がひらかれる。今宵、ダーナの一族が闊歩する。今宵、かれらは力を持つ。今宵、危険をいとわぬなら、人は神々に問いかけることができるのだ。フィンは槍を握る手に力を込めた。槍にやどる魔物の命を感じるのはこころよく、手の中でねじれ悶える感触、毒を含んで勇みたっているのもこころよかった。
 夜は手負いのかさ高い獣が重いからだをひきずるように黙々と這っていった。フィンの精神も時とおなじく重く鈍くなってゆき、両手は必死に槍をおさえていた。なにも見えない――なにも聞こえない――なにひとつ身じろぎもしない。そんなふうに時はのろのろと過ぎていった――きりもなく、ものうげに。掴んでいる槍がふいにこわばった。大地そのものが身じろぎした。あたりが明るんだ。音楽が! そう、たしかに音楽が、はるか遠くに聞こえる。かすかだが耳をつらぬき、この世のものならず美しい。
 あとになってみれば、どのような楽器で奏でられていたものか、フィンにはしかと言えなかった。高くかろやかな歌声のようで、聴いていると身のうちでなにかが喜びにおおきく飛躍した。自分が身の丈を越えて伸びあがり、旋律の高まりに負けぬように、あたり一面に、大地に、大気に、遠く低い山並みに、近くの暗いドルイドの丘フラクタに、いっせいに湧きおこった音に負けぬようにそびえ立っているのを感じた。おおきなうねりの中にいくつもの声が響いていた。勝ち誇った挑戦的な声。突き刺すように美しく、ひとつの音を長くひいている。炎の舌のように揺れる情けを知らぬ声。森の葉の一枚一枚が舌を得たかのように無数の応答が大音声の朗唱をなした。トランペットが切迫した響きを添える。シンバルの打ち合わされる音、ヴィオールの弦の柔らかな音、ティンパーン、ハープ。人のものならぬ声が和して高らかに歌っていた。そして錯綜する音の節々から――銀河の星のように、鉄床《かなとこ》から散る火花のように――無数の銀の鈴を振る音がこぼれ、ちらつき、きらめいた。
 刻々と音楽は変化した。葦のしげる水辺に風の足が描くような模様を描き、波が高まるように高まり、ついには弧を描いて崩れ落ち、しかも、勢いよくはしる波頭の泡のように――逆巻く流れに閃く鮭の銀色の輝きのように――はじめのこの世のものならぬ旋律、かろやかな美しい旋律はつねにそこにあった。ああ、ミーナの子が奏でるこれは何なのだろうか。なぜフィンは意に反してミーナの子とともに音楽に加わっているのだろうか。フィンが奏でると星は空より落ち、地は無に帰し、それでいてなお、かれは自身のからだを抜け出て伸び上がり、高くそびえ立って耳を傾けていた。なんとかぼそく美しい歌だろう。月日星《つきひほし》が風に舞う塵――吹き散らされる細かな塵――になっても、なお歌はつづいていた。これほどかぼそくはかない美が心を奪い尽くすとはどうしたことだろう?
 いまやフィンの心が歌に糧を与え、フィンの力は風にひからびようとしていた。意識が遠のくなか、槍の穂先に額を付けた。すると不思議なことに気がついた。ビルガの槍は歌っている――白い光の柱のような歌を。この槍、ビルガは歌っている、戦いを、英雄の偉業を、危険と冒険を、苦難を、挑んで勝利をつかみ取った者たちを、挑んで敗れ、なお敗北をものともしなかった者たちを。なんと生き生きとした力を秘めた歌だろう。フィンの心はふたたび熱くなり、足はしっかりと大地を踏みしめた。
 しかしこれは大地だろうか――いままでこんな大地を見たことがあっただろうか。草は緑に色づきはじめた――いまだかつて陽の光が照らしたことのない燃える緑に。真紅に朱に紺碧の花々が――太陽がけっして見下ろしたことのない花々が草の間に揺れていた。巨大な空の丸屋根が低く低く迫ってきて、たえがたいほどに青く燃えた。
 そしてついにミーナの子が、世界の縁を乗り越えてきたかのように姿をあらわした。かれの身をとり巻いてありとあらゆる色が燃えあがってはひらめき、高まる旋律が脈を打っては衰えた。その中心にある身体の白さは炎の白さだった。
 フィンは槍の穂先を強く額に押し当てた。かれはバスナの一族のために立っていた。山に潜み、飢えに苦しんだ者たちのために。逃れ、うち負かされ、荒れ果てた土地に死んでいった者たち――運命にあらがう気概を持ちつづけた者たち。狩られ、追いたてられ、貧困にしいたげられたかれらは、父ウーアルのために追放されたのだ――かれらが死んだのも――幾人かは――フィンのためだった。かれらはフィンの血肉、骨肉の一族だった。かれらは苦しみながらも、へこたれぬ勇気をもって呼びかけてはいないだろうか。「踏ん張れ。踏ん張れ
 フィンは槍の包みをほどきはじめた。マントを傷つけないようていねいにほどき、はがそうとしているうちに、ミーナの子アリンは――まばゆく恐ろしいほどに美しい――すぐそばに迫っていた。アリンはしばしこの世のものではない色あざやかな鳥のように立っていた。フィンに気づいたふうでもなく、目はフィンを突き抜けて先に向けられ、世界の果ての虚無をのぞきこんでいるかに見えた。
 アリンは唇をひらいて砦堅きタラの宮へ息を吹きかけた。
 その息は稲妻のごとくすさまじく、激しい音をたてた。
 フィンはちょうどマントを解きおえたところだった。ほとんどなんの期待もせず、猛烈な炎に向かってマントをひろげた。炎がマントの表面に踊り、千の色にきらめかせ、そして地面にほとばしった。
 ミーナの子アリンはふたたび唇をひらいて砦堅きタラの宮へ息を吹きかけた。
 稲妻のごとくすさまじく白い――その息たるや! 稲妻のように光ってマントの上できらめき、地面にほとばしった。
 ミーナの子アリンはあたりを見回し、みごとな枝角の牡鹿が森に何かを察知し、逃げるべきか戦うべきかもわからず、あたりを見回しているというふうだった。
 三たびアリンは砦堅きタラの宮へ息を吹きかけた。
 三たびすさまじい炎が音たてて地面にほとばしった。
 するとミーナの子アリンは背を向けて逃げだした。
 むきだしの槍を手にウーアルの子フィンは跡を追った。あいかわらず音楽は沸きたち、声が響き、ぐるぐると回る大地と回る空が一体となって燃えあがるなか、あらゆる楽器が熱狂した。フィンにとって、このふしぎな世界でたしかなものは、おのれの心臓の鼓動と、駆ける脚にうける衝撃だけだった。炎のようにかろやかにミーナの子アリンは駆け、その後ろに、まわりに、ゆくてに、大地は星さながらの炎を咲かせた。
 北へ向かってふたりは走った――北の鍛冶屋の山へ、輝ける住居、シー・フィナハへ。
 水を蹴立ててボイン川の浅瀬をわたる途中、フィンは銀色の聖なる水をひとすくいして顔と目に叩きつけた。「女神よ栄《さかえ》あれ!」感極まった叫びをあげ、おおいなる母、ダーナの神聖な川にあいさつした。女神の加護があったのだろうか、あるいは、ミーナの子はフィンの世界がおのれの世界を侵し、邪魔するのを感じたのだろうか、その足どりが重くなった。いっぽうフィンは、狼のように走りつづけた――狼はねばりづよさだけで、ほかのあらゆる獣をしとめるもの――ますます力と負けん気が湧いてきた。
 そうしてふたりは北へ向かった――ひたすら北へ。
 ミーナの子アリンはもはや光輝に包まれてはいなかった。音楽も静まりとだえた。フィンは力をふるいおこした――さらにもういちど。ミーナの子は疲れたように走るほっそりした若者でしかなかった。だがまだ槍を投げて届く距離には追いつけない。
 そうするうちにスリーヴ・クリオンが――鎚をふるう者、世界を造りかたちを与えた者、鍛冶屋の山が――ゆくてに迫った。山は空に向かってそびえたち、けわしく急であるのをフィンは知っていた。あれほど疲れたようすでは、ミーナの子アリンはとても登れないだろう。フィンはもういちど力をふるいおこした――それでもまだ槍の届くほどには近づけない。そのとき突然、山がひらいた。山と見えたものは砦に守られた城、堂々たる宮殿で、その天蓋や尖塔は星に並んできらめき、夜空に消えていた。
 中は山そのままに広大で、宮殿は刻々と変わるやわらかな光彩を放ち、城門の奥深くから色あざやかな花々のようなダーナの一族が外をうかがっていた。ミーナの子アリンに声援が送られるが、アリンの走りはいっそう力なく、ひと足ごとにのろくなった。フィンは――牝鹿の跡を追って走る狼のように走りながら――間合いを測った。ふいに、ありったけの力を込めて槍のビルガを放った。槍はミーナの子の背に当たり、からだをつらぬいた。ダーナの一族が悲痛な叫び声をあげた。ミーナの子はかろうじて踏みとどまった。のろのろと、やっとのことでよろめき進んだ。
「勝利を、花咲ける枝よ、勝利を」ダーナの一族は門の内から呼びかけたが、砦の外へは出ようとせず、救いの手をさしのべようともしなかった。ミーナの子の足が敷居にかかる寸前に、フィンは髪をつかんで引き戻した――ぐらつく相手を大地に引き倒した!
 アリンが倒れると、雷鳴のような音が鳴り響いた。あたりには泣き叫ぶ声が満ちた。「おおう」「おおう」「おおう」そして輝きはあとかたもなく、天にそびえる尖塔の群れもなかった。薄れゆく星々が冷たくあおざめるなか、スリーヴ・クリオンが黒々と空にそびえていた。
 冷たく淡い星あかりのもと、フィンは捕らえた相手を見おろした。ミーナの子アリンは死んだように横たわっていたが、からだには――血の気もなくほっそりとして、水面に映る月影のように白い――傷ひとつなかった。フィンの目は槍を探した。地上の獲物を探す鷹のように鋭い目で、槍のビルガを探した。どこにもない――ない! フィンはミーナの子に目を戻した。こんなにも美しい存在に刃を振るうのは気が進まなかった。まだこれほどの輝きを保っている髪にもういちど触れるのは気が進まなかった。
 ミーナの子は片手をついて身を起こした。まぶたも重く、けだるげに、あざけるようにフィンに微笑みかけた。
「わたしの首はおまえのものだ。一夜と一日の途中まで。槍は時の終わりまでわたしのものだ。悪い取り引きではない」
 ミーナの子はあおむけに身を倒し、目を閉ざした。もうひとことも言わず、息もしなかった。
 フィンはかれの首をとった。

"The Spear Birgha" from The Tangle-coated Horse and Other Tales from the Fionn Saga by Ella Young
館野浩美訳

Illustration: "Finn heard far off the first notes of the fairy harp" by Stephen Reid