見出し画像

魂を捧げるに値する仕事。

少し前のことになります。
1月31日。神奈川県立厚木高校の特別授業にお招きいただき、自身のことをお話しさせていただく機会に恵まれました。

去年お声かけいただいてから2カ月以上、この日に向けて悩みに悩みました。
自身の話をさらけ出すのは、魂を削るような感覚でもありました。
でも、引き受けるからにはそこまでの覚悟で挑みたかった。

画像1

授業が終わってから2週間とちょっと。
先日、丁寧にファイリングされた生徒さんたちのワーク&感想シートが届きました。

恐る恐る開いて、あれだけの想いで挑んだ価値があったと、ようやく胸をなでおろせました。
本当にありがたいことに先生からは、「38年間の国語特別授業の中のベスト5」と仰っていただけました。
(しかもその中のお二方が大変尊敬している方々だったので、ちょっと信じられない思い...)


「である」ことと「する」こと

今回お声かけくださったのは、過去に『国をつくるという仕事』(著:西水美恵子さん)を使った授業を実施してくださっていた、国語教師の嘉登(かとう)先生。
生徒の想像力を心底から信じていて、型破りとも思われる授業の数々を展開し、スーパーティーチャー賞にも輝いている方。
大胆な構想を実現しながらも、一つひとつのコミュニケーションを本当に丁寧にとってくださる、大尊敬している先生です。

今回の授業の対象は、本格的に受験勉強が始まる手前にいる高校2年生の2クラス。

政治学者・丸山眞男さんの講演録『「である」ことと「する」こと』を中心とした一連の授業。
その中で、偏差値70近い優秀な生徒さんたちが将来、

「一流大学の学生であること」
「大企業の社員や公務員であること」

に留まらずに、その素晴らしい力を世のために活かす行動を起こす(=する)種を撒きたい...それが嘉登先生の願いでした。

そこへ、僕が口癖のように言い続けてきた「1人の100歩より、100人の1歩ずつ」をはじめとした話が活きるのではないか。
そんな打診をいただいたのでした。

引き受けるのであれば、決してかっこつけず、弱さも恥ずかしさもすべてさらけ出す覚悟を持つ必要があると思い、だいぶ怖くもありました。
だけど、嘉登先生の授業と生徒であれば、そうして挑むだけの意味が必ずあると思い、覚悟を決めたのでした。


「ただのテキスト」になれるか

自分が伝えたいことを話し、それを聞きたいと思った人が聞きに来る...
そういう講演会とはわけが違いました。

自身の話を提供しつつも、そこに解釈は極力入れない。
生徒たちの自由な解釈を最大限引き出すために、可能な限り「ただのテキスト」になることに徹する。
誤解が生まれたとしてもそれすら豊かな解釈と割り切って、語ることと同じくらい、語らないことを考え抜く。
生徒を信じて、誘導しない。
自分は講師ではなく、話題提供の順番が回ってきただけの「生徒代表」だと思って、共に学ぶ場にする。

その難しい準備の過程に徹底的に寄り添ってくださった嘉登先生のプロフェッショナリティに答えたかった。
考え抜いたと思った案でも喜んで廃棄し、何度でも考え直してきました。

かつて2時間かけて死に物狂いで語ったこと+αを、一つの問いを投げるための土台として25分にどう凝縮するか...
スライドなしの真っ向勝負の語りを、どう準備するか...

色々なハードルを乗り越えて、70分の授業を本気で作る。
それはこんなにも大変なことなのかと思い知りました。
それを日々実行されている先生方を、心底尊敬します。


「である」と「する」の優劣

自分の人生を振り返って準備する過程で、「『である』よりも『する』を」という優劣関係に違和感を抱き始めました。
(丸山さんの論文でも「する」至上主義への懸念が描かれており、嘉登先生も同じ感覚を持っていらっしゃいました)

「である」こそが、そこから生まれる「する」の源泉なのではないか。
「である」と「する」を行き来しながら、豊かな自分になっていくのではないか。

...

サッカー部でなかなか活躍できないコンプレックスから、「少なくとも誰よりも自分に厳しく、誰よりも練習する選手『である』」ことをアイデンティティにしてしまい、いつしかそのこと自体を目的化してしまい、無茶苦茶なハードワークで怪我を連発し、本質的な努力に至らず活躍できずに終わってしまった高校時代のこと。

サッカーを辞め、国際協力の世界へ転身して本当に小さい1歩(半歩でも)から周囲が動き、どんなに小さな自分でも世の中の端っこの端っこを変えていけると気づき始め、TABLE FOR TWOの活動と出会い、ウガンダ・ルワンダの支援地で見てきた経験も踏まえ「1人の100歩より、100人の1歩ずつ」というメッセージを見つけ、自分にできる「する」を一つずつ積み重ねてきた大学時代のこと。

友人の事故死から病につながってしまい、会社員「である」ことも、日常生活を「する」ことも失ってしまった時代のこと。だけど、何もできなくなったどん底で、可能性が閉ざされる痛みを知った経験を活かして「誰かの可能性を開ける人『でありたい』」と思える瞬間が来たこと。そこから、そうあるための「する」が少しずつ自然に生まれ始めたこと。

英治出版という会社は、「出版社として本を作る」のではなく、「応援したい著者の想いや知恵を、公・みんなが使えるもの(Public)にして、社会にポジティブな変化を起こす"Publisher"『である』こと」を大事にし、それを体現するための「する」は本作り以外にも無数にあるということ。英治出版がPublicにする物語や知恵は、自分が目指す「誰かの可能性を開ける」ものだと信じていること。今日は自分自身の話を語ってPublicにすることで「誰かの可能性を開ける人『である』」を体現したいと思ったこと。

...

それらのストーリーを語る間、お昼ご飯を食べて外で運動した後でどう考えても眠い時間帯であったにもかかわらず、生徒さんたちは物理的な圧すら感じる視線を寄せて聞いてくれました。
話し手と聞き手の間に共鳴が生まれるとき、場がとても静かで、スローで、濃密な空間に変わっていく身体感覚を得ることがありますが、まさにその感覚を味わいました。

ストーリーテリングが終わった後で、生徒さんたちにはたったひとつ、こんな問いを投げかけました。

話に出てきた過去の「である」と今の「である」に、どんな違いを感じたか。

僕自身がどんな違いを感じているのかは一切口にしませんでした。
どちらの「である」が良いのかという優劣も付けませんでした(ストーリー的にどうしても臭ってしまいますが)。


魂を捧げるに値する仕事

個人で考える時間とグループワークを通じて生徒さんから生まれてきた様々な解釈は、これまでこの授業に費やしてきた苦労が吹き飛ぶほど、驚くくらい豊かなものでした。

僕自身が感じてきた自分像を超える考え方だらけ。
問いかけたのは二つの「である」の「違い」だったにもかかわらず、中には自発的に「共通点」を見出して発表してくれたり、前者の「である」にも価値を見出してくれたグループまで。

この素晴らしい感性。
きちんと1分の発表にまとめる力(僕は20分で語るはずが25分になってしまった...)。
他者の意見からも真剣に学び、素直に驚ける姿勢。

若い生徒さんたちが持つ可能性に感動しっぱなしでした。
彼らがこの力をいかんなく発揮できる土台を作り上げてきた、嘉登先生の手腕と努力にも。


この70分のために、大げさでなく魂を捧げるつもりで準備してきました。

教育とはそうするだけの価値があるもので、子どもや学生とはそれくらいの想いで向き合える希望である。

あの日の生徒さんたちの様子を見て、送っていただいたワークと感想シートを見て、心底そう思いました。


お読みいただいたとおりです。
80名の生徒一人ひとりが心をざわつかせ、成長した記録になっています。

中に小さな付箋を付けたものがあったかと思いますが、彼は窓際の席で授業に関心がなかったように見えた生徒です。
ところが・・・・・・です。

だから、人間っておもしろいなあと思うのです。
そして、教師って仕事はやみつきになるとなかなかやめられなくなるのです。

ぜひ、そんな授業を紹介し、多くの皆さんとシェアしてください。


この記事は、そんな嘉登先生の想いに答えるつもりで書かせていただきました。

ご縁をいただいた生徒さん一人ひとりが、「である」と「する」の解釈をそれぞれに深めて、「よりよい自分像」を描くヒントを得られる機会になっていたら嬉しいです。

そして、社会からのプレッシャーも大きいだろう優秀な生徒のみなさんが、いつかもしも、「である」も「する」も失ってしまうような場面がきたときに、この日の話がわずかでも支えとして蘇ってくれたらいいなと願います。

そういう貢献が、こうして出会った顔の中のたったひとりにでもできたかもしれないと思うと、これは魂を捧げるに値する仕事だったのだと誇れます。

それを日々繰り返されている全国の先生方に、心からの敬意を。


一隅を照らす、これ則ち国宝なり。 ── 伝教大師・最澄


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?