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【ライナーノーツ】ちょっと塩、いいよいいね

これはいったいぜんたいどんな音楽なのか。まったく解説したくない。まったく解説できる気がしない。そういう気持ちを捧げたくて書きました。

2005年と2007年にリリースされたCDアルバムのライナーノーツ。

永遠に大好きな音楽です。なぜこんなにずっと胸をうつのでしょう。

「ちょっと塩 / 30世紀 (棚レコード2005)」


 天使がこの世で生きていくためには、ケミカルジーンズにサスペンダーして自作超常キャラのついた野球帽を逆さまにかぶり、後ろ髪を束ねておじいさんの馬のしっぽみたいにひょろ〜んとたらして、黄色い草履虫柄のマフラー巻いて何故か眼鏡だけは普通なちんちくりんのおっさんでなければならない。そうやって徳島のビリヤード屋「かずみ」の奥の小部屋で店番をしながら怒濤のごとく音楽をつくり続けることを誰かが止めることなど、ぱーぱーぱーなのだ。

 川端稔の音楽は胸をうつ。最初あっけにとられ、突拍子もない音や言葉に笑いがこみあげるが、さらに聴けば聴くほど無心が迫り、すべてをさらけだす行為のうつくしさにうち震え、涙さえ浮かべることになる。おそらく、そのさらけだされた内容の濃度に激しく打ちのめされ、意味のなさに疲れ果て、二度と聴けなくなるひともいることだろうが、それは私の知ったことではない。

 川端稔はよく夢をみるのではないか。他人の夢の話はたいていが退屈なものだ。たとえば、私は、赤いキリンが輪になって道路に立ちはだかり、こちらをじっと見るものだから、前に進めず、車のブレーキを踏んだまま途方に暮れる夢をみたことを、数人の友人に話したことがあるが、皆一様に「はあん」と、ぼんやりした声を発するだけだった。ぜんぜんおもしろくない。異常に個人的なことだからだ。しかも、それがナマで提出されたのでは反応のしようもない。しかし、ある種の人間は、その異常に個人的なことを、普遍的なかたちに変換できたとき、非常な幸福を味わうことができる。作家の作業とはそういう夢のような幻覚のようなマグマのようなものを作品に昇華させることなのかもしれない。かれの夢はすこぶる上等で、痛々しいまでに自由で、それを体外に送りだすための腕は、ビリヤード「かずみ」の裏の小部屋で日夜磨かれているのだ。川端稔を聴くことは、かれの孤高の幸福にうずまかれるということなのだ。

 ああ、わからない。天使は天の使者であるので、あまり何かを考えていてもらっては困る。ひょっとしてだまされているのか。かれは天使などではなく、まぎれもない人間で、これはかれの目的であり、狙いなのか。もしもそうだとしたら絶句である。もう、テンサイ、という稚拙な言葉しか出てこない。私には、そのほうが幸福であるともいえるけれど。だって。ちょっと塩っていったいなあに? 
 
 へんな夢をみた。川端稔のそばで、踊る男女がいる。男は低くうなっている。ひょろっと長身。ゆらゆらと揺れるような動きだ。一見冷静であるが、注意して見ると目が透明だ。女は笑っている。あかい口紅の唇を大きくひらいたまま、ぴょこぴょこと上下に飛び跳ねている。一見無邪気に見えたので、油断しようとすると、奇声を発した。ぴー。ああ、あまりにも楽しい。ああ、そうか、ここが30世紀なのか。さて、目を覚まして誰かに話してもいいのか。それとも、もう一度眠ってしまった方がいいのか。ただ続きをみるために。

「いいよいいね /bikemondo (棚レコード2007)」


浜子は魔法使いのような子守歌使いで、
浜子が歌うと、
どんな人も吸い取られるように眠りについて、
ふと目を覚ましても、
まだまだ機嫌良く歌っているのでした。
黄金の寝台の石油王でも、道ばたのドラ猫でも、
夜であっても昼であっても、同じこと。
いつしか世界中から、
たくさんのお金を払って浜子を呼ぶ人が出てきました。
浜子は高価な毛皮や宝石を身につけるようになりました。
けれど毛皮も指輪もバッグもスカーフも、
歌いに行く先々に、忘れては置いてくるのでした。
それどころか、
指や耳や眉毛や、膝やふくらはぎやお尻も、
歌いながらひょいひょい取り外しては忘れて置いてくるのでした。
さて、その歌は、世にも奇妙な歌で、
聴きながら眠った人が、いくら思い出そうとしても思い出せません。
覚えようと思っても誰も覚えられません。
だからそれがどんな子守歌なのか誰も知らないのです。


*ご紹介した2作品は、websiteよりご購入いただけます。
気になったら、ぜひぜひどうぞ。


http://bridge-inc.net/?pid=3528768

http://bridge-inc.net/?pid=5017708

*なお「ちょっと塩/30世紀」は、初版への寄稿のため現在発売のCDには掲載されていません。


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