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世渡り弱者

職場に、「世渡り下手くそか!」と毎回ツッコミたくなる若者がいる。
まぁそうは言っても、わたしだって決して世渡り上手では無いし むしろ若い頃苦労してきたので、彼を見ていると若い頃の自分を見ているようで苦しくなる。
どうにか手助けしてあげたい気持ちと、いやいや、いくら周りが構ってやっても本人の考え方が変わらなければ何も変わらないよという気持ちと、面倒くさい奴なんか放っておきたい気持ちと。

全然仕事の流れも作業も分かってないのに知ったかぶりしちゃってるとこ。
自分の能力を買い被ってるところ。
なのに周囲の人は「あいつにそんな高次元な能力はない」って分かってて冷ややかに見ていること。
あーヤダヤダ 恥ずかしい。未だに自分にも心当たりあり過ぎる。人のこと言えないわ、この歳になっても。

あの頃わたし、「助けて欲しい」って誰にも言えなかった。
助けて、手伝ってって言ったら無能を公開してしまうと信じ込んでいて言えなかった。
そして、言っても無いのに「助けてと言った後に断られる」事に怯えすぎていた。
今なら分かる、大抵の人は助けてって言えば助けてくれる。世界は自分が思っているより優しい。

あの頃わたし、周囲から悪く言われてるのを感じ取っていたから余計、殻に篭って孤独を深めていた。
雑談なんて無駄で、雑談ばかりしてる奴は無能で給料泥棒だと思っていた。
今ならわかる、雑談はコミュニケーションの1つであり、「あなたに敵意はありませんよ」を示す為の行動の1つであると。
そして組織は、孤立してる人間より周囲とコミュニケーションをうまく取れる人間の方を重宝がると。

とりあえず、人間関係は本音「だけ」でやりあっちゃダメだよね。
「嘘つきはいけない事」と信じ込んでいたから、嘘なく本音だけで人間たちに体当たりしてきたけど、それは時に本音と言う名の武器になり、簡単に誰かを傷付ける。自分の側の正義しか見えていない視野狭窄。そんな人間、そりゃ周りの人々は去っていくよ。
嘘も方便とはほんっっとよく言ったもので、ある程度のゆるさ、思いやりとか知らないふりとか、そういう「親しき仲にも礼儀あり」の上に会話や人間関係が成り立ってるんだよね。

コミュニケーション上手な人たちってこういう事を子どもの頃に知って経験積んでいくんだろうか。
私は恥ずかしながら、こういうコミュニケーションの基礎を知ったのが40になってからだから、もうほんと、子どもの頃から知りあって来た方々全員に謝りたい気持ち。 
そして、こんな自分なのに学生時代から今も仲良くしてくれる友達には会う度に、今まで申し訳なかったという気持ちと「こんな私に優しくしてくれてありがとう!」と大感謝の気持ちで最大限の思いやりを発揮したいと思ってしまう。

今でも自分が「世渡り下手」から「世渡り上手」にまで進化したとは思ってないけど、少なくとも世渡りルールをちょっとずつ理解し始めたところ、と思っている。

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