見出し画像

地平線の向こう側へ。2011年、3.11からの旅。その1

その時、俺はパチスロを打っていた。当時おれは福島県の南部にある天が栄えると書いて天栄村と言う田舎で歯科医院を営んでおり、その日は確か金曜日で午後がたまたま休診日で、大好きだったパチスロを打ちに、隣町の矢吹町にある「アラジン」と言うパチンコ屋に行った。何台か打ったがさっぱりで、金も大分使った。これで最後にしようと座った台が「鬼武者」と言う当時人気の台。なんとなく打っているといきなり台が騒がしくなり、ボーナスが当たった。そしてさらに騒がしくなったと思ったら、ATと言われるラッシュ状態に入り爆裂モードにはいった。あっとゆう間にドル箱に半分くらいのコインがでて、まだラッシュは止まらない。脳汁爆裂快感モードで至福の時を迎えていた。パチスロ打ちにとって最高の時間の始まりだ。台から出るノリノリの音と液晶の光を浴びてぶん回していたその時に来た。
突然、ドーンと下から爆弾のような衝撃と共にパチンコ屋の内部が大きくぐあんぐあんと揺れ始めた。しかもその揺れはどんどん激しくなり、かなり長く続いた。それでも脳汁ハイ状態の俺は、他の客が外に避難し始めているのにも気づかずラッシュ状態の鬼武者を夢中で打ち続けていた。そして揺れが収まり、もう終わったと思った瞬間また大きな揺れが激しくきた。もう店内で台を打ってる客は俺だけだった。店員が来てすぐ避難してくれと指示され、ようやく我に返った俺。まわりをみると、すぐそばに天上から落ちたと思われるガラスの鋭い大きな破片が落ちていた。
ようやくパチンコ屋の外に出た俺。大勢の客がそこでざわついていた。ようやく事の重大さに気がついた俺。驚きはあったが、その時はラッシュ中の台が打てなくなった残念さのほうが強かった。なので、あんなヤバく揺れたのに全く地震自体に恐怖は感じてなかった。
地震が完全に収まったのはどれほどしてからだろう。もう一度店に入り出たコイン分の計数を済ませたが、両替は今日はできないから明日来てくれと店員に言われ、レシートだけもらって帰ることになる。多分2万円分くらいあったと思うが、そのレシートを両替することはなかった。
地震が収まり、矢吹町から天栄村の自宅までの道のりがやばかった。途中地割れや倒木道路が寸断され、何度も回り道をして抜け道を探して家に帰ると、外観はそのままに見えたが、中に入った瞬間、全身の力が抜けた。ぐちゃぐちゃに破壊された家の中。診療室も居間の寝床も全部、物が全部散乱し、ガラスまで外れていた。飼っていた2匹の猫の安否を確認。でもショックで力が入らず寝込む以外になかった。ぐちゃぐちゃの部屋の真ん中の布団に入り、ただ眠る以外にできることはなかった。
地震が起きたのが多分午後の2時か3時ごろ。6時ごろまで布団で意識を失っていた俺の肩を福島市から帰ってきた妻が叩いて起こした。
「大変だ。原発が爆発するってよ。逃げるよ。」
といきなり寝起きの俺に言った。よくよく聞くと、俺の妹の知り合いの県庁職員からの情報らしい。状況を理解した俺はすぐにボストンバックに服と最低限の日用品を詰め込んで、妻と当時22歳くらいの娘で車に乗り込み妹と実の母親の家にいき、妹と母親はべつの車で南の方、栃木県に向けて走り始めた。途中壊れたり陥没したりしている4号線をひた走り宇都宮のどこかの駐車場で朝方仮眠。そして昼過ぎ、佐野藤岡の高速近くのビジネスホテルにチェックインした。
そして、そこで滞在3日後に原発が爆発した。
もうここにはいれないと悟った我々はホテルで家族会議をし、俺と妻と娘は北海道に行くことを決めた。妹と母親は福島に戻る道を選んだ。生活基盤がある地元をどうしても離れられないとゆう理由。見ず知らずの土地で知り合いもいないところで無理だと思ったんだろう。それぞれの選択。結果的にそれは母親との永遠の別れになることとなった。
そして栃木から群馬を抜けて新潟に我々3人を乗せたミニクーパーは朝焼けの中出発した。
途中の越後湯沢や田舎の風景を今でもうっすらと覚えている。
新潟の港から小樽行きのフェリーに夕方乗った。
そして明け方、まだ薄暗い小樽港に着いた。
車に乗り込み、キーを回す。エンジンがかかりゆっくりと船のスロープをおりて上陸する。明け方の3月の北海道。吐く息が心なしか白い気がする。
その時、カーオーディオから聞こえる歌声。
地平線の向こう側へ。Misia.
涙が止まらなかった。静かな涙。溢れ出す絶望と希望。

地平線の向こう側へ、ねえ、何があるだろう?
希望だけを両手に抱えて、どこまでも行こう、行けるところまで あの日と同じこころで。

あてのない航海が始まった。未来の全く見えない冒険が、そこから始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?