日本の家族の歴史とトレンドーー【連載第1回】個人の“幸せ”にはほど遠かった「家制度」下の結婚事情
家族社会学の観点から日本の「結婚」「家族」の過去、現在を切り取る新連載。第1回は、明治政府下で確立された「家制度」がどんなものであったのか、紐解いていきましょう。
■近代日本が打ち立てた「家制度」とは?
日本の結婚を語るとき、家制度を避けて通ることはできません。
1868年に明治新政府が誕生。政府は1872(明治5)年までに、皇族以外のすべての国民の戸籍を作成しました。
戸籍には、法的には戸主、いわゆる家長を筆頭に、その父母、兄弟姉妹、配偶者、子孫が記載され、国家はこれによって家族と個人を把握することになりました。
明治政府には、列強国の脅威に対抗するために、近代的な軍隊をつくるという大きな使命がありました。そのために戸籍をつくって、国民を管理する必要があったのです。そして1898年に制定された明治民法によって、家制度はより強固なものとして確立されていきました。
■女三界に家なし
明治民法によって、妻は法的に無能力者と規定されました。無権利の状態に置かれ、生活上のあらゆる決定権、権利は、夫である家長にゆだねられます。例えば、妻が夫の許可を得て働いて得た財産や実家からの持参財産なども、すべて夫が管理していました。戸籍上の序列では、妻よりも跡継ぎの長男のほうが上でした。
「女三界に家なし」という有名なフレーズがあります。女は幼少時には親に従い、結婚したら夫に従い、老いては子どもに従うものであり、世界のどこにも身を落ち着ける場所がないという意味です。
家制度の時代において結婚は第一に「家」を維持・繁栄させるための手段であり、跡取りとなる男子を確保することが、何よりも優先すべきこととされました。家督を相続する者がいなければ祖先のまつりが途絶えてしまい、これ以上の不孝はないと考えられたのです。学校でも家庭でも、そのような教育がなされました。
■家長の権限は絶対。家族は全員、家長の考えに従う
家制度の道徳観について、大きく4つの特徴を挙げてみます。
1つ目は「祖孫一体」です。家とは祖先と子孫が一体した結合体であるという考え方です。この結合は、家長を中心とする男系のつながりを意味しています。明治期に活躍した保守派の代表的な法学者、穂積八束に「日本は祖先教の国である」という有名な言葉があります。つまり家族というものは、個々人が独立して結びついているものではなく、個人は家に埋没して、家がひとつの意思を持っているという思想なのです。家制度の下では、家の存続と繁栄が第一の価値で、この目的にかなう行為は善、反する行為は悪とされました。
2つ目は「孝」です。「孝は百行のもと」とされ、家制度の道徳は「孝」をもって始まるとされました。教育勅語では忠孝一致が国民教育の基本と定められ、「孝」は人倫の基本であり、父母に孝行する心が天皇への心としてあらわれる。それが「忠」だとされます。子どもの親に対する絶対的な服従を基礎とし、幼少期から最も大切なこととして「親の言うことをよく聞くこと」を教えられたのです。こうした服従関係は「自然の情」として語られるものでした。結婚とは子孫を残すためのもので、祖先の祭りを絶やすことにまさる不孝はなく、子孫を残すためであれば妾も容認されました。
3つ目は「夫婦相和シ」。教育勅語などにも書かれている言葉です。例えば、臨時法制審議会における文部官僚・江木千之の「我邦ノ風習ハ父母又ハ祖父母ガ主婚者ナリ」という発言があります。結婚する主体は当人ではなく、父母や祖父母だというのです。家制度における夫婦の和合とは、「親子は目的、男女は手段」という考えの下にあります。妻が家長である夫をあがめることで夫婦の和は維持される。「夫婦相和シ」という言葉からは、仲の良い夫婦が想起されますが、その内実は、妻が夫に従属することで成り立っていたわけです。どんな理不尽にも憤らず、無理を無理と考えないこと、つらいこともつらいと感じないよう修養することが、称えられるべき「女の道」とされました。
4つ目は家の和。各々が「分をわきまえる」ことで集団の和を保つという考え方であり、これは個人の権利・義務という考えとは相いれないものです。「和」は情緒的な一体感を基軸としており、家族の一員が他の一員と違う考えを持つことは「和を乱す」として否定されました。家長の考えが、家族全員の考えでなければならないのです。和の道徳では、現在の規則に適応することこそが正しいことであり、規則そのものに不満を持つことが道徳的に強く非難されるのです。
そしてこうした道徳は、「国家」をひとつの家(天皇=家長)とみなす家族国家観へと拡張され、あらゆる人間関係を律する原理とされたのです。
■結婚は強い国民を生み出す手段
昭和に入り、戦争が烈しさを増すと、結婚は“強い国家”“強い国民”をつくるための手段と位置づけられていきます。もちろんそれまで通り、家制度、家族道徳は重視されましたが、加えて戦争に勝つための手段という側面が強化されていきました。
1938年に創設された厚生省がこの政策を主導。明治時代に紹介されていた優生学(eugenics)が、ドイツのナチスなどを参考に政策に採り入れられていきます。皮肉な話ではありますが、戦争に勝つという目的のため、この時期に福祉衛生、健康に関する制度、政策が一気に確立・発展していくのです。
たとえば、厚生省の推薦図書であった『結婚新体制』(1942年)には、「悪い素質を持った人、虚弱で国家の役に立たぬ人間を絶滅し、優秀な強健な人間をどしどし殖やすことが必要」であり、「この質と量との両側面より民族の将来を考へること」が重要だと書かれています。また、結婚の前に「健康診断書」を交換することを義務付けるべきだとも記されています。
日本では優生思想が戦後も継承され、1996年まで優生保護法が施行されていて、海外から大きな非難を浴びました。
■「結婚報国」を掲げた国営の結婚相談所
結婚相談所というとなんとなく新しいもののような感じがしますが、明治時代にすでにたくさん存在していました。若者たちはかつては村落の中で結婚相手を見つけていたわけですが、近代化にともなって都市に人が移動していくと、地縁で結婚相手を見つけることが難しくなりました。「出会いの場がない」という若者の悩みに応えて、結婚媒介業や相談所が乱立していったのです。
戦争が激化する中で、結婚相談所は新しい意味を見出されていきます。強い国民、強い国家をつくるために、皆が結婚し元気な子どもを産めるようにと、相談所への期待が高まったのです。
このような折り、厚生省が国営の結婚相談所を開設。その数は全国で500を超えていたともいわれています。銀座の松屋デパートや日本橋三越などの店内にも設置され、お買物のついでに結婚相談をしましょう、と呼びかけて利用を促しました。
国営の結婚相談所は「結婚報国」という理念を掲げていました。結婚は公益に奉仕するための手段であるという考え方です。
戦時中の啓蒙書『臣民の道』の中に、次のような一節があります。「一椀の食、一着の衣と雖も単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、眠る間と雖も国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある。かくて我等は私生活の間にも天皇に帰一して国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」。国民に私生活はない、すべて公益のため。当然、結婚も、個人のためではなく、国のためだというわけです。
■日本国憲法によって大きく転換した日本の結婚制度
1945年に第二次世界大戦の終戦を迎えた日本は、GHQの指導のもと、民主化を進めることになります。家族や結婚をめぐる法律も大きく変わりました。ここへきて戸主権に基づく「家制度」は、少なくとも法律上は終焉を迎えることになります。
新しい日本国憲法では、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」(第24条第1項)するとされました。結婚は「家」同士の結合ではなく、「個人」同士の対等な関係であることが法律で示されました。
憲法の規定に基づき民法も改正されました。戦前民法の戸主制度や家督相続権が廃止され、財産の均等相続や男女同権が謳われました。結婚に親の同意を必要とするという規定も廃止されました。結婚は家と家との結合から、独立した個と個の契約へとかたちを変えました。
GHQは戸籍こそが封建的な家制度の根幹にあるとみなし、個人カード方式を導入することを提案しました。しかし日本政府は紙不足と事務作業負担を理由にGHQを説得。結果、戸籍は保持されることになりました。
名字について、当初政府は「夫の姓を名乗る」という案を提出。GHQから新憲法の「両性の平等」に反すると批判を受け、「夫又は妻」にという文言に変更しました。
新たな制度では「三代戸籍禁止の原則」が採用され、同じ戸籍に入れるのは親子二代までになりました。「結婚したら新しい戸籍をつくる」という、新しい制度がスタートしたのです。今でも結婚のことを誤って「入籍」と言うことがありますが、女性が嫁として夫の戸籍に入った家制度時代の名残りです。
家のための結婚から、個人の幸せのための結婚へ。日本国憲法によって、日本の結婚制度は、大きく変化したのです。
(【第2回】結婚相手の選択は、地縁、職縁から、自己責任へ に続く)
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