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「幸福の総量は皆同じ」について

 「幸福の総量は皆同じ」って誰が最初に言い出したのか、嫌ってほど聞くわけだが、平たく言えば人間万事塞翁が馬の劣化コピーだ。

 別段「自分が不幸なので、その言葉は嘘だ」と言うつもりはないけれど、スラムで生まれた子供が空腹のまま育って、碌でなし親に児童売春の宿に投げられ、その上で性病うつされて死ぬって人生が、日本に平々凡々な家庭に生まれて、何だかんだと仕事はあるし家族はあるしって感じで生きている人生と幸福の総量が同じだってのは、流石に無理があるだろうと。

 結局こういうのは「世界は帳尻が合うように出来ている」と思い込みたいってだけの話である。

 自分が幸福でも、不幸な人を見た時に「この人にも幸福なタイミングがあるから」と言って、良心の疚しさを解消するための言葉だ。
 或いは「自分が同等な不幸が起きる可能性」を考えないようにする為の言葉だ。(この人は何処かで幸福だったので、その報いが今来ているだけだと)

 別段自分の幸福について、疚しさを感じる必要はないが、人間は何かと他人と比較する生き物だ。

 不幸自慢を要するに自分の人生経験の豊富さと捉える人だっている。
 結局、人は特別でいたいのだ。

 だから「平凡な幸福」と「特別な幸福」を並べるために、「総量は同じ」みたいなコトを言い出すのだ。

 と言うか、幸福ってもんを数値化出来ると考えているのか、数字でもないものを比較出来ると考えているのか、どっちにしてもナメた考えだ。

 報道の自由度ランキングとかそうだろう。
 マスコミ関係者が不自由と思えばランクアップという面白システムで、政府の気に入らない人間が殺されたり投獄されたりする国よりも、ランクが高いとか言う面白現象が起こるアレである。
 国の幸福度ランキングも、まぁまぁ"願望"の現れである。

 金で買えない幸福は確かに存在するが、お金で防げる不幸は山ほどある。
 年収が幾らを超えたら~と言う話はいくらでもあるが、金持ちでも不幸な人がいるならば、そんなのもあまり意味もない。
 お金と幸福度(或いは不幸度)の関係がリニアとは到底思えないのだから。

 治安のいい国なら貧乏人でもいきなり殺されるなんて事はないし、公衆衛生のしっかりしたちょっとした風邪で死ぬこともないだろう。
 じゃぁ、それらはどれぐらい幸福度に寄与するだろうか? こういうのを明確に数値化出来るとは思えない。

 お金持ちならばいくらでも楽しい国と、貧乏人でも苦しみながらでもきちんと生活出来る国と、どっちが幸福な国だろう?

 総量なんて馬鹿な議論はするんじゃないよ。
 それが答えだよ。


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