見出し画像

「罪人を招くためである」

マルコ2章13~17節降臨節第9主日

2022.2.20


 マルコ13節以下は徴税人レビの招きの物語である。この箇所は13~14節と15~17節の2つの伝承部分に分けられる。マタイ福音書9章の平行記事では「徴税人マタイの招き」に変えられている。古代教会ではこのマタイがマタイ福音書の著者と考えられていた。

 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた(13節)」。物語の場所が設定される。「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて『わたしに従いなさい』と言われた(14節)」。レビはイエスの教えを聞きに湖のほとりに行ったのではない。レビはただ収税所に座っていただけだ。イエスがそのレビを通りがかりに見た。そして声をかける「私に従いなさい」と。レビがイエスの教えを聞いたのかどうかは関係ない。彼がイエスの周りにいたのかどうかも関係がない。イエスは通りがかりに見た、ただそれだけの男に声をかける。ではイエスに声をかけられたレビはどうしたか?「彼は立ち上がってイエスに従った(14節)」とある。収税所に座っていた男が「立ち上がった」という。イエスに声をかけられると、人間は「立ち上がる」。座り込んでいた者がイエスに従うために「立ち上がる」。イエスに出会う者は「立ち上がる」。

 2章1~12節の中風の人をいやす物語においても、イエスに声をかけられた中風の人は、「起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行つた(12節)」という。イエスに出会った者は「起き上がる」。床に寝込んではいない。寝たままではない。どこへ「出て行く」のか?イエスの元に出ていくのである。イエスの言葉には人を「立ち上がらせる」力がある。イエスの行いには、人を「起き上がらせる」働きがある。次にレビの家での食事の席での物語が語られる「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである(15節)」。「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた(15節)」。「実に大勢の人がいた(15節)」。それはどのような席か?

 この食事は「大勢の人」が集まった「祝宴」である。これは祝いの席である。そこには多くの人が招かれていた。徴税人も罪人も招かれていた。彼らはイエスの弟子たちと席を共にしていた。それは楽しい喜びの時である。今、この場で彼らはイエスと弟子たちと共に、喜びの時にあずかることができる。罪人も徴税人も喜びの時を持つ。だからこの食事の席は「神の国」である。より正確には「神の国の先取り」である。「神の国は近い(1章15節)」。今、ここに「先取り」として来ていることを示している。イエスの周りには「神の国」の喜びが広がっていく。それはどのような喜びか?それは「実に大勢の人がいる」、「徴税人や罪人が同席する」に表されている。「神の国」とはこういう国である。それは人間の間の隔てが取り去られた国である。人間の属性という垣根が取り去られて、等しく喜びにあずかる国である。それが「神の国」である。そんな国はどこにもないかもしれない。しかしイエスの周りにはあつた。実に多くの喜びを分かち合っていた。イエスがもたらす神の国の喜びか溢れていた。マタイ5章45節に「あなたがたの天の父は」「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださるからである」とある。ここでは悪人と善人、正しい者と正しくない者との垣根が取り去られている。神の前では人間の垣根が取り去られる。イエスの周りにはその先取りがある。

 これが「神の国」。イエスの周りに「神の国の先取り」がある。しかし「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言つた(16節)」。彼らは人間の間に垣根を作ろうとする。イエスが罪人と一緒に喜びを分かち合うことが許せない。そしてイエスがもたらす神の国の喜びを分かち合おうとしない。「どうして」という問いは、神の国の喜びが見えていないから発せられる。神の国の喜びを批判し否定している。律法によって人を区別し、垣根をつくるところに、イエスと共にある喜びはない。これらはマルコの教会の状況の反映であるだろう。紀元50~60年頃、教会の中にユダヤ人も異邦人も集っていた。そこで誰がイエスに招かれているかが問題となつていた。だからマルコは伝えたい。「誰もが人間の垣根を取り払った喜びに招かれている。その喜びを疑うものは神の国を拒む者である」と。

 イエスの言葉を用いてマルコは教会に向けて語る。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(17節)」。イエスが来たのは、「正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」。ここに神の国の始まりがある。

 教会は神の国に招かれている。喜びの国に招かれている。イエスの周りにあるいのちにあずかりたい。正しい者でなく、罪人が招かれている。キリストの教会に集うものは、喜ぶことのできる者である。神の国の喜びにあずかる者である。教会に神の国の福音が現れているか?神の国の喜びにあずかつているか?あずかっているなら、「ネ申の国の先取り」を現すイエスに従うものである。律法学者のように「どうして」と問うなら、イエスに従っていない。そこに神の国は来ていない。神の国の喜びに満たされているか。それによってイエスに従う者かどうかがわかる。教会に神の国の福音が現れますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?