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「神の国の秘密が打ち明けられている」

マルコ4章1~12節降臨節第8主日


2022.2.13

 2022年はマルコ福音書を読んで、イエスの姿を見つめ、「イエスとは誰か?」を問うている。イエスにはいろいろな姿がある。弟子を招くイエス、病人を癒すイエス、悪霊を追い出すイエス、パリサイ人や律法学者を論破するイエスなど様々なイエスの姿がある。

 今日の箇所、1節に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆がそばに集まってきた」、2節には「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた」とある。「教える」が二回繰り返される。ここに「教えるイエス」、「教師としてのイエス」の姿がある。ただし、ここでのイエスは、古代ギリシアの哲学の教師とは異なっている。彼らは思想・考えを教える。しかしイエスは神の国を教えない。イエスにその意図はない。イエスはただ神の国の到来を告げる。だからイエスは神の国を「たとえ」で語るのだ。そこに大きな違いがある。なぜイエスは神の国を「たとえ」で語るのか?それは人間が、神の国を定義する仕方で説明できないから。人間は神の国を定義できない、説明もできない。だからイエスは神の国を語らない。イエスは「たとえ」を用いて神の国の到来を告げる。ただ神の国の福音を語るのみ。そして人間はただ神の国を待つ。神の国の到来を福音として聞くことができるのみである。

 4章は、神の国のたとえが集められている。4~8節は種蒔きのたとえ、21節は「灯火」のたとえ、24節は「秤」のたとえ、26節は「成長する種」のたとえ、30節は「からし種」のたとえと続いている。神の国は定義できない。しかしこのたとえ話を聞く者の中に、神の国への思いが広がっていく。神の国のイメージが心の中に広がり、そこに喜びが溢れ出る。

 「種播きのたとえ」についてイエスは言う、「このたとえがわからないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるだろうか(13節)」と。つまりこの「種蒔きのたとえ」は神の国のたとえの入門であり、同時に代表なのである。「種を播く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで上の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった(3~7節)」。道端に落ちた種は、やって来た鳥に食べられる。石地に落ちた種は日に焼けて枯れてしまう。茨に落ちた種はふさがれる。道端、石地、茨の中の種は実を結ばない。

 しかし「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった(8節)」。良い地に落ちた種があつた。その種は芽生え、育ち、実を結ぶ。道端、石地、茨という三つの失敗があった。しかしその失敗にもかかわらず、良い地に落ちた種は大きな実を結ぶ。それも30倍、60倍、100倍にもなる大きな成果である。良い地の実りは30倍、60倍、100倍へと広がっていく。この広がり!この広がりに「福音」がある。我々は失敗すると、絶望し、すぐに諦める。しかし良い地に落ちた種は大きく広がる。そこに大きな喜びが与えられる。成功より失敗の数のほうが多い。しかし一つの事柄が大きな喜びとなる。これまでの失敗以上の喜びがある。私達の人生も失敗だらけであっても、そこに神の国の福音が蒔かれるのなら、それは大きく、広がっていく。これが神の国のたとえの根幹のことである。イエスは、弟子たちに「たとえについて尋ね(10節)」られ、答えている。「あなたが方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが、たとえで示される(11節)」。ここでは、隠されているものと明らかになっていくものが対比で語られる。「神の国の秘密」とある。神の国は「わからない謎」である。神の国は隠されている。しかしイエスの弟子たちだけに、その謎が明かされる。外部の者には秘密は明かされない。なぜか?「それは『彼らは見るには見るが、認めず聞くには聞くが理解でき』(12節)」ないからである。

 これはイザヤが預言者として召命を受けた時の主の言葉である。「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、眼を暗くせよ。日で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることもないために(イザヤ6章10節)」。心が頑な時は、聞いても聞こえず、見ても見えない。そこには立ち返りがなく、赦しがなく、癒しもない。

 頑なな心とは自分の思いが詰まっている心である。心の中に自分の思いが詰まると、見えず。聞こえない。「頑なな心」の反対は「打ち砕かれた心」である。心を空にした時に、神の言葉は、聞けて、見えて、私たちの心に入ってくる。イエスは言う「よく聞きなさい(3節)」、「聞く耳のあるものは聞きなさい(9と。これは「聞きなさい、見なさい、知りなさい」というイエスの命令である。心が空になったときに、神の国の謎が解き明かされる。自分の思いが第一なら、神の国の謎はそのまま残る。神の国は、信じる者、イエスに従う者には、「灯り」となつてその心を照らす。聞く耳を持つて聞くなら、人はイエスの言葉を聞くことができる。その時、神の言葉が心の中に広がる。イエスの言葉が「30倍、60倍、100倍」に広がっていく。イエスの言葉、イエスの出来事は広がっていく。これが神の国である。

イエスの言葉は広がり、大きく実を結ぶ福音である。ここに神の国がある。


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