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祖父の空

豚汁には里芋が入っているもんだと、そんな勝手なイメージが私に、こびり付いた。

幼少期の頃、祖父に連れられて海へ行った。
同い年の従姉妹も一緒だ。

小樽の石造りの建物が並ぶ街路を、祖父の白い軽ワゴンは、登り坂で「ウーンヴーン」と唸り声を上げる。

真夏の快晴の日。水色の澄んだ空と海の地平線が、どこまでも遠く、潮の香りがした。

そう高くないところを海鳥達が飛行して、波と戯れるように鳴いていた。

私と従姉妹は、大きな声で「う〜みは、広い〜なおーきーなー♪」と歌っては、はしゃいでいた。

祖父は、私達を見て目の下に集まった輪型の細い皺を一斉に集めて満足そうに笑った。

祖父は、よくダジャレを言う人だったが、どこか寡黙でもあった。

白い軽ワゴンの車内は油絵具の匂いがした。
祖父は、その頃、油絵をやっていて暇さえあれば出かけ、何処かの風景をデッサンしていた。

今でも私にとって祖父の匂いは油絵具の匂いなのだ。

祖父は、ある海岸に車を停めて外へ出た。
私達も後へ続いて景色を眺めた。

濃い青の海にゴツゴツとした黒岩が突き出ていて、その岩に波が打ち寄せては白い泡を立てて引いていく…。

そう遠くないところに半島の断崖も見える。

「すご〜い」。私達は迫力あるその絶景に見惚れた。

「よーし。昼にしよう。豚汁を作るぞ。」と祖父が、ガスコンロを取り出し鉄鍋に火にかけ油をひいた

私達もそれに習い、椅子とリュックを持って位置につく。リュックには母が持たせてくれたおにぎりが入っている。

3つのタッパーには、あらかじめ下ごしらえしておいた野菜や豚肉が、詰め込まれている。

ラーメン屋の店主だった祖父はそれらを取り出して強火で手際良く炒める。玉ねぎのいい匂いがより空腹感を強くした。

祖父の豚汁は野菜の出汁がよく出ていて、とろみがあり、本当に美味しい。

人参、ごぼう、玉ねぎ、大根、じゃがいも、里芋は柔らかく具は大きめで、特に溶けかけた里芋の食感は、そのまま私の舌の記憶に強く焼きついた。

こんなに美味しい豚汁を食べたのは、この時が初めてだったのだ。

この日の眩しさと暖かさ、波の音、鳥の鳴き声や風の匂い、祖父の笑顔、従姉妹の笑い声。
そして豚汁の味が、幼少期の良い思い出としてはっきり覚えている。

私が中学生の時だった。
歴史の授業で満州事変、日中戦争の事を学んでいた頃。

祖父に戦時の出来事を聞く機会があった。

「ねぇ爺ちゃん。戦争の話を聞かせてよ」

祖父は、一瞬固まったが、ゆっくり腕を組みながら
「料理を振る舞ったら喜んでくれたよ…。」と言ったまま窓の外を見て押し黙ってしまった。

祖父は、相変わらず窓の外の空を見つめている。

目の下の輪型の皺はそれほど集まらず、代わりに眉間に皺が寄り、悲しそうに遠くの空を見つめていた。

それからというもの私は祖父に戦争の事は聞けなくなった。

祖父の住まいにはアトリエ部屋があった。

4畳半の小さな部屋だ。

そこには描きかけの絵や描いている最中の絵、まだデッサンだけの絵という具合にところ狭しに置いてある。

私は、そんな絵を見るのが好きで祖父の家に行く度にアトリエ部屋を覗いていた。

祖父の絵の殆どは景色の絵で、それが何処の絵なのか当てるのが楽しみだったのだ。

10年前、祖父は複数の絵画を残して亡くなった。96歳だった。

生前、祖父は戦争の事は全く話さなかったと母は言っていたが、亡くなる日の前日、祖父が話してくれた事があった。

子供の頃から絵が好きだった事。耳の横の傷は弾丸が、かすめた時にできた傷だった事。
戦友達に料理を振る舞って喜ばれた事を初めて祖父の口から聞いたのだった。

「でもね、辛かった事は何も話さなかった」と母は言った。

私が祖父に戦争の話を聞こうとした時、祖父は遠くの空に何を見ていたのだろう?

押し黙って遠い空を見つめていた祖父の表情から読み取れる事は、悲しさや悔しさ、あるいは寂しさしか感じ取れなかった…。

形見分けで貰ってきた絵画の風景には見覚えがある。

残雪の無意根山は、好きな山の一つだ。
私も幾度か登った。

祖父が見たこの風景は、どんな風に見えたのだろう。どういう思いで描いたのだろうか…。

きっと、私の目に映る風景よりもずっとずーっと何倍も綺麗な風景だったに違いない。

私は、今一度祖父の風景画を観察した。

私には、その色鮮やかで力強いタッチは、戦争体験という封印された心の傷を自己治癒しているかのように見え、戦争の悲惨さや怖さ、悲しみや辛さを静かに伝えていると感じざるおえないのだ。

そんな意味も込めて本当に素晴らしい絵画を祖父は残してくれたと思う。

だからこそ戦争は絶対にあってはならないと強く思うのだ。















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