人間はなぜ新しいことを始めるのが億劫なのか?について思ったこと

自分自身の体験談として、思うことなのですが、例えば今まで自分がやってこなかったような新しい事や物に遭遇した時、そこに飛び込めば絶対に新しい世界が広がって、今までの自分の生活とは全く水準の違う豊かな世界が広がっている。
そう頭では完全に理解しているのになぜか飛び込む時の体のどこかにストッパーがかかったような感覚があり、結局そのままその新しい事をせずにいつものルーティンに落ち着いてしまうということが多々あります。
こういった経験は自分以外の方でも経験している方は多いのではないかと思うのですが、その理由を考えた時、目にする意見が「自分の根本に自己肯定感の低さがあり、自分には分不相応なもの、自分にはそれを手にする資格がないと無意識で思っている」というものです。自分もこの意見に同意する部分があり、その自己肯定感を高めるための行動を色々試してきました。
しかし最近思うのですが、この「自己肯定感の低さ」というのは、意識の層としては確かに存在するのですが。そのさらに深いところにはもっと別の無意識の状態があるのではないのかと思ったのです。
つまりそれは「もしもこの新しい世界を手にした後に、結局元のつまらない世界になってしまったらどうしよう、この最初の新しいものへの心の高鳴りは失われて、自分の欲望するものの存在しない世界。欲求できるものの存在しない完全に退屈な世界になったらどうしよう」という恐怖があるように思えたのです。
もしも新しい世界に飛び込んで、一通り楽しんだ後に、結局元の退屈な生活に戻ってしまうのではないかという恐怖、最後には自分の楽しいと思えることが全くなくなってしまった真っ白な世界になってしまうのではないかという危機感があるのではないでしょうか?
そんな絶望を味わうくらいならば、最初の心の高鳴りだけを楽しんで、一通り想像の世界で遊んだ後に、退屈ではあるけれども安心感のあるいつもの生活に戻った方がマシだと思う人間の心の部分があるのではないでしょうか。
ここまでなんとなく思った時、最近ラーマクリシュナやチャイタニヤ・マハープラブの著作を読み漁っていたせいか、そういった欲望するものの喪失といった構造自体も自我の仕掛けた巧妙な罠というか、そういった自我の自己保存の構造なのではないかと、思うんです。
この世界自体が神の嬉戯であり、神が作り出した幻力のサーカスであるならば、世界は全てが楽しい遊び小屋であり、「絶望するほどつまらない世界」というものも幻想の一つであり、この世は神の笑気に満ちた完全にスキマのない世界であることに気付けたのです。
だから、自分がワクワクやドキドキを感じるものやことがあったならば、躊躇わず飛び込んでいった方が良い、飛び込んだ後にはさらに新しい面白いものが待っているんだから。って思った話でした

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