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一日に知らない事を五つ知る習慣

これは私が長年実行してきた習慣です。

後に知りましたが、吉田松陰も同じように、

「1日1字覚えなさい。
1年で365文字覚える事ができるのだから」

このように述べていました。

まず自分で知る習慣と、人から得た習慣には
違いがあります。

有名な人が言っていようが、そうでない普通の
人の言葉であったとしても、自分の足でその地点まで
歩いてきた過程が大事なのです。

極々自然な事であっても、気づかない大切な習慣と
すべきことは沢山あります。
一つの事を続けるだけでも大変です。

人間には調子が悪い時もあれば、気が乗らない時も
あるからです。

しかし、それでは習慣とは言えません。
気持ち的には、ガンジーの言葉のように、

「明日、死ぬ覚悟で生き——
永遠に生きる覚悟で学べ」

この言葉のように、覚悟を決めたからには、
一つの何かを継続して行くことは、簡単とは
言えなくなります。

まずは一つ何でもいいので、簡単な事から
初めていくうちに、その習慣は必ず自分の何かに
役立つ時が来ます。

習慣とは継続することであり、継続させるには
絶対にやり抜く覚悟が必要となります。

大抵の場合、三日坊主の人たちの方が多いはずです。
しかし、それでは何も無し得ませんし、
たった一つの事ですら出来ない人には何が出来ると
言えるのかと言えます。

人は人を見て、何かしらの影響を受けたり、
知識溢れる人の持論を展開する事により、
斬新な思想や、その人間に対して興味を持ちます。

そうして頑張ってきた人たちは輝きを見せ始めます。
人は頑張る人を見る事により、色々な思想を抱いたり、
抱かなかったりします。

どう感じるかは様々ですが、頑張っているのであれば
必ず表情に出ているはずです。

私は普通の人では体験出来ないような事に、
良くも悪くも出会ってきました。

だからこそ、持論を持って自分の信じる道を歩き
続けています。

最初に持論を持つ時が、やはり一番時間が
かかりました。

私の場合、何故五つの新しい事を知るという
習慣にしたのには、理由があります。

まず、今はネットの世界であるという点、
そして約8年ほど、病を患っていた事が
五つにした理由となります。

当然ながら、ネットの情報をそのまま鵜呑みに
するような事はせずに、書かれている文章に対して、
自分の思想を入れ込む事により、矛盾が生じれば、
どこかがおかしいと言うことになります。

その矛盾している事も結局は調べて知るように
なるので、習慣をクリアできない日は無くて、
最低ラインになってきます。

それは当初からそうなるであろうと思っていたので、
最低五つの新しいことを知るというものを習慣とする
事にしました。

予想通り、大抵の場合は七つくらい新しい何かを
知るようになっています。

しかし、知るだけでは意味は無いので、そこが吉田松陰
との時代の差が生まれます。
彼がもし、この時代に生きていたのであれば、文字では
無く言葉や、挑戦的なものになっていたはずです。

時代の違いによっても、多くの事が変わる事を知るのも
大切です。
今では考えられないような時代を、人類は当たり前のように
生きていた時代もあるからです。

それは今の時代でもあることです。ただ隠す事が昔よりも
格段に簡単になったので、バレにくい時代にはなりました。

最近見た北朝鮮の中でもエリート家系の男性が、中国に
行った時、それまでは北朝鮮の洗脳によるものから、
自国である北朝鮮は世界からも凄いと絶賛されていると
思い込んでいましたが、ネットにより自国が悪い事を
している事実を知りました。

この事を公言した事により、母国にいる家族との連絡は
途絶えたニュースを見ました。

ネットの規制やテレビのニュースにしても日本でも規制
しています。アメリカ等から嘘の情報を流す場合も
あります。

この事は何度か書きましたが、今ではコロナから戦争に
と多くの事が起こり、その存在も消えかけていますが、
実話映画「スノーデン」のエドワード・スノーデン氏は
歴史に残るほどの人物です。

彼の存在は近年の出来事により、薄れてはいますが、
私の中では常に存在し、彼の生き様は素晴らしい事で
あると思います。

そういった意味では、自分の中に誰かしらの存在を
活かすことは良いと思います。
ただ、張り合ったり、理想的な存在にするのは
間違いになります。

人はそれぞれ個性があり、絶対的に近しいほど、
人間には多くのものから心や魂といったものを
形成するに至るまで、感情、思想、信念、愛、
知識、博学その他、無数のものから人間形成
されますので、同じ人間はこれまで存在しない
と言えます。

だからこそ、自分という人間を大切にする必要が
生じるのだと私は思っています。

人は生まれてから思春期を迎え、その後、自分の
考え方などが生まれてきます。

人間は生を受けた時より、確かに人生は存在します。
しかし、ほとんど無知識のままで最初は生きている
ので、その幼少期の頃に受けた虐待等が表に出るのは、
大抵の場合、18歳以上くらいだと言われています。

それまでは眠りについているような状態であって、
苦悩や苦痛といったものを忘れている場合が多く、
考える力を身につけていくうちに、それに酷似した
映像や感覚により、再び精神を刺激した時に
思い出してしまい、それに苦悩する人は大勢います。

私の周りでは、そういった体験をして生きているのは
一人しかいません。
それは同級生ですが、親友でもありましたが、
幼少期の痛みは乗り越えました。

しかし、大人になってからも、再び精神的虐待を受け、
人格は崩壊しました。
人を寄せ付けず、誰とも話さず、周りからは軽蔑され、
それが死ぬまで続くことを、本人も理解はしています。

理解していても、精神的な痛みは消えないので、
悪夢も見ますし、息をするのも苦しくなる時もあり、
生きる事への意味を見失います。

事実、私もそうでした。これらの事は体験しなければ
理解されない点が非常に大きなものとなります。

noteでたまに深く心の中を吐き出すと、大抵の場合、
調子は悪くなります。先週も悪夢を見ました。

自分の叫び声で目を覚ましました。
その前から何かを口に出して喋っていた感覚も
残っていて、最悪期は過ぎましたが、それに触れると
必ず、何かしらの形となって私を襲います。

悪夢を見たのは久しぶりでしたが、以前は夢と現実の
区別がつかない場合が連日のように続いていました。

寝ていて目が覚めても、現実の事を夢で見ているため、
それが夢だと気づかずに、口に出して話をしていて、
長い時には15分ほど、夢の続きを現実で見ていて、
誰かに話しかけています。

反応が全くない事から、夢の続きだった事にようやく
気づき、精神的に追い込まれた場合、色々な事が
自分に襲い掛かってくるのですが、そんな人生を
過ごす人は少ないですし、何より体験した人にしか
その苦痛は伝わらないので、自分で乗り越えるしか
無いのも、大変です。

私の場合は、幼少期の頃から虐待は受けてましたが、
哲学的思想に目覚めたため、アインシュタインも
同じように、そういった精神的苦悩を度々乗り越えた
と知り、故人ではありましたが、勇気づけられました。

彼も言っていましたが、

「本当は自分が間違っていて、他の人たちが正しい
のではないかと何度も疑ってしまった」

と、いった事も私も体験していたので、非常に共感を
持つ事が出来ました。その当時は悪夢も毎日のように
見て、自分が万力のようなものに挟まれて、じわじわと
時間をかけてゆっくりと、肉が裂けて、骨が軋み、
骨にヒビが入り、肉が潰れていき、最後には完全に
潰される夢は何度も見ました。

夢は起きた時には忘れるものが、ほとんどですが、
忘れる事が出来ないほど、何度も見た夢は今でも
覚えています。

それらが何個もあって、現実では責められ、
夢では悪夢で、どちらの世界にいても苦しさしか
ない時もありました。

アインシュタインはいない時代でしたが、
彼も多くのそう言った事を多く抱えていて、
人に話しても無意味である事や、苦悩した時期が
あった事を知り、乗り越えられた人がいるので
あれば、自分も乗り越えられるはずだと思い、
時間はかかりましたが、更に色々な体験をして
人間的に生き返ったので、得たものはあったとして、
今は生きています。

ただ、このような場合、大抵の人は死を選びます。
それは現実です。実際、耐えれない事でもあります。
その上、体験した人が絶対数的に少ないので、
相談もできないので、自分で乗り越えるしか道は
ありません。

その点が一番の問題点だと言えると思いました。

精神が耐えれるまで生き残れるかどうかに
なってきますので、当然ながら生と死は隣り合わせ
にいる状態にあるため、死を選ぶ人の方が多いのは
そういった状況だからだと思います。

ある人が幼少期に哲学の思想を抱くのは不可能では
ないのか? と言った人もいますが、確かに普通に
考えれば有り得ない事です。

私の場合は特殊な家庭環境に生まれて、嘘を知らない
年齢であったのに、嘘の存在を知ってしまった事から
哲学的思想に発展したので、当然ながら苦悩は子供で
ありながらも耐え切れないほどでした。

自分はカナヅチでありながら、水の怖さを知っている
のに、私と弟をいきなり特待生が入る一番トップの
水泳教室の特別クラスに入れたり、暴力公認で
家庭教師を雇ったり、他にも数多くの問題を抱えて
いたので、弟はそれに耐えきれず、成人した後に、
まず、暴力的な人間になり、次に重度の強迫性障害が
発病し、それまでは私の中で懐疑的であった多重人格
も、実際にあるのだと知り、最初は正直驚きました。

自分で自分の事は分からないように、私自身も実際は
そうなのかと思いもしましたが、大丈夫だと言う事は、
その後に地元で多くの友人たちに会い、自分の知らない
自分はいない事を知ったので、後は自分で乗り越えるだけ
だとし、失われた時を埋めるために、多くの事に目を
向けたのが、習慣の始まりでした。

最初から五つ以上の新しい事を知るとする前に、
それ以前はもっと多くのことを日々調べて熟慮した上で、
逆説論という、持論を見出しました。

これに関してもやはり現実的な体験も含めた上で、
持論として展開できたものだと思っています。

今でもこうしてnoteを書く上で、ほとんどは記憶を
元にした思考で書いていますが、希にいつも使って
いるような言葉の意味を調べる事もあります。

普段は話すことにしか使っていないような言葉に
対して、本当に間違っていないのかどうかを書く上では、
特に気をつけるようにしています。

以前書いたように、敦盛の歌の意味を誤解している
人がほとんどなので、書くにあたり、しっかりと間違って
いない言葉かどうかは調べるようにしています。

ほとんどは間違っていませんが、中には別の意味も
含まれるものもあって、そういう言葉が多いのは
知ってはいますが、自分も知らない事が多いので、
noteを通して、自分の成長も目で見て分かるようになって
きたので、より気をつけなければならないと自覚しています。

何事にも最初があります。
そして、偉人の言葉にもあるように、

「誰もが最初は素人だった」

と言う言葉があるように、最初は知らないのが当たり前なので、
色々な意味で、私の成長を助けてくれる言葉でもあります。

そういった経緯を通して、今は現実を見つめ直しています。
五つ知らない事を知ることは、実際、それほど難しい事では
ありません。

問題はやはり、その言葉を知るだけでなく、意味をしっかりと
理解することが困難だと言えます。

それは体験や経験を通している言葉であるならば、
それほど難しいことではありません。

しかし、自分の体験の中には無いものが言葉とした場合、
難易度は高まりますが、そこを理論的に埋める言葉を幾つか
知っていれば、それもまた難しい問題ではなくなります。

習慣は習慣となるまでの道は険しいものではありますが、
習慣とした後は、それは日常的な事になるので、
簡単なことになります。

多すぎず、負担をかけない程度の習慣から始めてみて、
物足りなくなったと、心のどこかで実感した時には、
また新たな習慣に挑戦するのが、大切だと思っています。


#日々の大切な習慣


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