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【子育て】健診結果が「要相談」や「×」だったからといって、なんなのだ。

4才児、年中の息子は、先日保育園で5才児健診を受けた。
あと数ヶ月で5歳。
同級生の他のお子さんと比較すると、小柄で細身。
1つ下の学年の子でも、うちの子より大きい子は結構いる。
私自身、平均よりは小柄な体格なので、親に似たのだろう。
あまり気にしていない。

活発な男の子のお母さんと送迎時に話した際、こんな会話があった。
私:「○○くん(相手の子)は、何が好きなの?」
A くん:「仮面ライダーだよ!」
Aくん母:「まるさんかくジュニアくんは、何が好きなの?」
息子:「えっとねー、ジャム」

棒を振り回し、石を投げて遊ぶ子を注意するAくんのお母さんの姿がちょっとだけ眩しく見えた。
うちの子は、棒も振り回さないし、石も投げない。
代わりに、石を拾って部屋の隅で大切にしていたりする。

ある一定の年齢が来たら、戦隊ものに興味を抱いたり車や乗り物に関心が走ったりと、いわゆるステレオタイプな志向を子どもは持つものだ、という考えに私自身も苛まれることがある。

トミカを買ってみたけれど、触ったのは最初の1回だけ。
なんとかレンジャーには全く興味を示さない。
なるほど、息子はちょっとだけ個性が強い人物なのかもしれない、と。

実は3才児健診の際にも、保健師さんの質問に全く答えず、自分の言いたいことだけ話しまくるという状況が生じ、「臨床心理士さんに相談していってください」という結論を出されていた。

忘れられない、あのときの保健師の方の溜め息混じりの発言。
「普通なら、こちらの言うことをちゃんと聴くんですけどね」

普通って何?
うちの子は、普通ではないとでも??

初めて会った人との数分のやり取りで、普通かそうではないかを決めることができるなんていうシステムが存在するのかって疑問に思った。
もちろん、保健師の方が悪いと言っているのではない。
その方はマニュアルに沿って息子とやり取りをしただけだ。
基準から漏れれば、「普通ではない」という結果を出すだけなのだから。

でも、なんとも言いがたいこの感情をどこに発散させるべきか分からず、2年が過ぎたのだ。
今回も、また引っかかった。

送付された紙面に大きく記載された「要相談」の文字。
他の説明書きがぼやけてしまうくらい、鮮明に浮かび上がるゴシック体。
そんな目立つように真ん中に配置しなくても。
一際目立つ「要相談」の存在感に打ちのめされた私は、そっと封筒の中にその紙をしまう。

こちら側ではなかった人たちには、どんな文字が記載されていたんだろう。
「普通」、とか?
子がひとりしかいない我が家では、比較対象がいない。
誰とも比較をしない、ただひとりの大切な子だ。

「要相談」。
何を相談するの?
体は小さめだけど、野菜は嫌いだけど、棒も石もいじらないけれど、うちの子は立派に育っていると思いますが。
って、やさぐれた私は、心の中で何度も「要相談」の文字を反芻し、この通知が送られてきたことの意味を自分なりに理解しようとする。
重たい。消化するには、なんというカロリー過多。

具体的に挙げるならば、
・「概念」
・「しりとり」
この2つに×印が記されていた。
(他に、△印が数個。)

自分が教師だから過敏になっているのかもしれないけれど、「×」をつけるってよっぼどのことだ。
今どき、通知表にだって×はつけない。
数ある項目の中から○をつけるものを選ぶことはあっても、敢えて×はつけない。
「×」って、「バツ」でしょう?
何を以て、バツ?

話は半月前に遡る。
健診日の夜、健診内容が気がかりだった夫が、息子に向かって執拗に聞いている。
「ねぇ、どんなことやったの?」
「先生に何言われたの?」

息子はお絵描きをしながら、淡々と答える。
「けんしんのせんせいに、バツっていわれたよ」
「ほかのみんなはマルなんだって」

ーー4才って嘘をつくだろうか?
自分の子どもの言うことくらい、親は信じたい。
でも、信じたくないこともある。
マルとバツの違いを、幼い我が子はどう認識しているのか。

夫は、目を飛び出しそうになりながら、息子に質問攻め。
そんな難しい言葉で聞いたって、分からないってば。

だから私は、通知結果をすぐには夫に見せなかった。
受け止めたくない気持ちは分かる。
私だって、そうだ。

「要相談」の文字を見て、やっぱり動揺はする。
小さな×印が複数ついていて、良い気持ちはしない。

だからと言って、専門機関に相談に行かないと意固地になっているわけではない。
より良い成長発達のために、息子のためにできることはしてあげたいと思うし、彼もそれを望んでいると思う。

その紙切れ1枚だけで、息子の何が分かるのだろう。
紙切れ1枚で、赤の他人から私たちは、息子の何を知らされたのだろう。
たかが1回、指示が通らないだけで。
しりとりができないだけで。
元気に過ごす息子を見て、だからなんだって思いたいのだ。
結果だけを捉えてわーわー騒ぎ立てる親では在りたくない、息子のために。





自分が他者と違っていることに誇りを持てるようになったのは、大人になってからだった。

「まるさんかくさんて、ちょっと変わってるよね」
陰でコソコソ言われているのを感じ始めた20代の頃、私は「普通」を逸脱した者だというレッテルを貼られた気がしていた。
少なくとも、それが僻みや妬みの1種であると認識できるまでは。

でも、そもそも「普通」って何?
「普通」の定義は?
誰もその答えを教えてくれないし、普通の人のモデルを出してもくれなかった。
「みんなちがって、みんないい」って謳われていても、世の中的には、大きな枠組みの中から抜けることなく生きていた方が良いとされる風潮があることは分かっていた。
でも、無理してそのフレームに収まることほどおかしなこともないとも思っていた。
私の中の「普通」を、なぜ能動的に(ある側面では受動的に)変形させなければならないのか。
他人の、大きく言えば、社会の、無言のプレッシャーみたいなものと戦わないと生きられないのだろうか、とさえ。

でも、その物差しを放ることにした。
他人の軸で生きるなんて、ばかげている。
そんな風に割り切ったら自然と肩の荷が下りて、やりたかった活動が進んだり、成果を出し始めたりした。
自分が見ていた光景は、他人から見られていた鏡だったことに気づく。

だから私の教育方針は、息子のありのままを認めること。
他人にどうこう言われようとも、毅然として受け止めること。

子育ては、長距離走だ。
マラソンを嗜む私には、もってこいの使命である。
気楽に、気長に。

さて先日、1歳半から通っているリトミックのコンサートに参加した。
息子は4才クラスとして、他のお子さんたちと一緒に素晴らしい活動を披露した。
2年前のコンサートと比較し、できることが増えたことを実感する。
先生の指示も通るし、他の子と協力だってしている。
何より、楽しそうな表情を見せる。

着実に、子は成長するのだ。
親が一番それを感じていれば良い。
一番それを感じられる親でいたい。

皮肉だけど、「要相談」の通知を機にアラフォーママは思う。
100点ではない子育てでも、子は力強く育っている。
すごいね、生命のパワーって。
(語彙力)

では、また!

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