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ジュディス・バトラーは世界に自分がペテン師であることを思い出させるために再登場した

ジュディス・バトラーはジェンダーに関する思想家でありながら、セックスとジェンダーについて不誠実な説明しかできず、世の中の女性たちから寄せられている批判の声を理解しようともしないことが、2020年9月のインタビューで明らかになった。バトラーおよび彼女の信奉者たちがジェンダー研究の世界で長年行ってきた茶番劇を、カナダのフェミニスト、ミーガン・マーフィー氏は鋭く批判している。

ミーガン・マーフィー
『フェミニスト・カレント』2020年9月27日

訳:TB


 ジュディス・バトラーは長いあいだ、欧米世界を理解しがたい難解語と意味の破綻した文章に引き入れた現代のジェンダー・アイデンティティ派の構築者の一人として認められてきた。それも当然である。彼女の1990年の著書『ジェンダー・トラブル』は、ジェンダーやセックス(性別)および「女性というカテゴリー」は「流動的(fluid)」であるという、今や主流の(アカデミックな)概念を導入したからだ。

 今日のジェンダー・アイデンティティ・イデオローグたち(女性の権利のために運動しているつもりのようだ)が直面している主な問題は、そして彼らが首尾一貫した形で答えるのを拒否しているのは、1)「女性」の具体的な定義が存在しない場合、「女性の権利」とは何か? 2)女性が物質的なものではなく、漠然とした観念にすぎないのであれば、なぜ「トランス女性は(文字通り)女性である」と主張しようとする一致団結したしばしば暴力的な努力をしているのか?    それは何を意味するのか? 女性とは何か? そして、なぜ私たちが「トランス女性を女性として受け入れる」ことがそれほど重要なのか(とくに、「女性」というものなど存在しないはずなのに)?


 「女性」という概念は流動的な概念で、女性の経験には何の共通性もないと言っていいほど多様なものであるという主張は、「女性であること(womanhood)」という概念そのものを試練にかけるものだ。それは、バトラーのようなジェンダー理論家によって導入されたアカデミックな議論であり、何ゆえかその後主流化し、今では草の根の、下からの運動として位置づけられている。それは驚くべきサクセスストーリーである。象牙の塔で生まれたこのような近づきがたい難解な理論が、これほど多くの機関や「急進的」活動家を自称する人々を掌握したことは、私にはとうてい予想できないことだった。しかし、現実はそうなっている。ツイッターのような強力な大企業が、生物学的男性(male)を「彼」と呼ぶことはヘイトスピーチに等しいと判断し、そのことに左翼活動家たちが同意する時代になったのだ(さらに、このような罪を犯した女は殴られるべきであり、処刑されるべきだとさえ言われている)。

 バトラーは文章や概念が明瞭でないことで有名だが、それにもかかわらず、今日では他のジェンダー研究者の誰よりも頻繁に言及されている。そのため、『ニュー・ステーツマン』は、トランスジェンダーの議論について、そして、ジェンダー・アイデンティティ・イデオロギーの正統性に疑問を持ち女性の権利が重要だと主張する非常に悪いフェミニストたちについて、彼女の見解を聞くためにインタビューした。

 バトラーが『ジェンダー・トラブル』で探求したアイデアが、主流の文化や政治にトランス権利論争が深く浸透した事実を説明するのにどの程度役立つのかと尋ねられたとき、彼女はアカデミズムにどっぷり漬かり現実世界との接触を失った学者に典型的な無知さで答えた。彼女は、法的なカテゴリーとして「女性」を消去することの影響を懸念する女性たちを「トランス排除的なラディカル・フェミニスト(trans-exclusionary radical feminists)」として言及し、さらに、それは「〔主流ではない〕周辺的」立場であって、フェミニスト(彼女は明らかに自分自身をその一人とみなしている)はそうした立場がいつまでも周辺にとどまるよう闘わなければならないと主張している。

 バトラーは、女性の権利のための闘いにおいて女性を周辺的なものにすることを擁護することの偽善性を理解していないのではないかと思われる。このような認識の欠如は、インタビューの間中ずっと存在しており、少なくとも一定の一貫性を提供している。
 実際にはもちろん、単にそう宣言するだけで一瞬にして男から女になれるという考え方や、そしてトランスジェンダーを自称する男性は、女性の更衣室、避難施設、スポーツ、刑務所への自由なアクセスが認められるべきであるという考え方に疑問を呈することは、実際には「極少派の周辺的運動」などではない。……

 最近ハリー・ポッターの作家J.K.ローリングが、男性がこれらのスペースにアクセスすることへの懸念を表明したが、バトラーは、このような懸念が存在するのは「ファンタジーの領域が働いているからだ」と主張している。彼女は、女性が「ペニス」を恐れ、ペニスを持つ者が、たとえば更衣室に入ったり、女性や少女を捕食したりするなどの悪質な目的のために女性であることを名乗るかもしれないから、そのような懸念があると考えている。

 これは、ジェンダー・アイデンティティ・イデオローグがよく持ち出す常套句である。すなわち女性は、男性が女性を「だます」ための変装として「トランス」を利用することを恐れているというのである。これは、ジェンダー・アイデンティティに関するフェミニストの立場を誤解している。トランス自認の人々が嘘をついたり、誰かを騙そうとする必要はない。性別(sex)を変えることが不可能なだけなのだ。人々はむしろ、確信や主張、手術や衣服の選択によって、生物学的男性(male)が生物学的女性(female)になることが可能であると信じるよう、トランス運動そのものによって「騙されている」のだ。「正統な」トランス女性など存在しない。男性は女性になることはできない。その人がどれほどそう望みそう信じていようとだ。これは策謀や残酷さの問題ではなく、事実の問題だ。「恐怖」とは、トランス自認の人々に対するものでも、女性のスペースにアクセスするためにトランスを利用する不誠実な男たちに対するものでもない。「恐怖」とは、アイデンティティに関係なく、単に男性に対するものだ。

 バトラーはこの恐怖を、まるで男性が永遠にレイプや家庭内暴力の主な原因となっているわけではないかのように、非合理的なものと位置づけている。彼女は「そのような空想(ファンタジー)が公の議論としてまかり通っているという事実自体が心配の種である」と言う。だが、実際には真の「心配の種」は、ジェンダーやフェミニズムに関して著名で信頼できる思想家ないしコメンテーターとして扱われている人物が、そのようなひどいガスライティングに従事していることである。男性用と女性用とにトイレや更衣室が分かれている理由は誰もが知っている。バトラーがあえてそのような主張をするのであれば、男女別のスペースそのものを完全に廃止したほうがいいだろう。彼女はそう主張したいのか? だが、それが彼女の立場を筋の通るものにする唯一の方法なのだ。

 一貫して広く誹謗中傷(slur)として使われている――つまり誰か(「ラディカル・フェミニスト」であるかどうかに関わりなく)を攻撃し周辺化し黙らせる手段として使われている――「TERF」という言葉について質問されると、バトラーは無知を装い、「TERFが誹謗中傷として使われているとは知らない」と主張する。この話題に関する専門家であると称しながら、自分自身をこの議論とはかけ離れた存在として提示するのは賢明ではないように思えるが、おそらくバトラーはもはや信頼を得ることなど気にしていないのだろう。これまでの彼女の戦略は、複雑なジャーゴンを使って自分の正統性を主張し、読者を混乱させることによって、彼女の天才を理解できないのは自分が知的に不十分だからだと読者に思わせることだった。したがって、ここでも彼女がおなじみの確実に有効な方法を用いているからといって、彼女をあしざまに言うべきではないのだろう。

 インタビュアーに対するバトラーの数々の問いかけは、女性の権利擁護者が何を主張しているのかを彼女が本当に理解していないか、あるいは、彼女の詐欺を見破るにはあまりにも愚かな人々に話していると仮定して不誠実に振る舞っているかのどちらかであることを示している。

 「TERF」が誹謗中傷であるという主張に対して、彼女は次のように問い返している。「もし彼女たちが排除を望んでいるのであれば、なぜ『排除的(exclusionary)』と呼んではいけないのか?」。簡単だ。私たちは「女性のスペースからトランス女性を排除したい」とは思っていないからだ。私たちはこれまでもそうであったように、男性を女性のスペースから排除したいだけなのだ。何も変わってはいない。これは何か新しいラディカルな概念ではない。「トランス」という接辞は誤用であり、それは、昔からの基本的な諸事実とフェミニストの仕事とを、単にこれまでの通りのものではなくて偏見に満ちた差別として提示することを意図したものだ。

 バトラーは続けてこう問う――「もし彼女たちが性別適合に反対するラディカル・フェミニズムの系統に属していると自分たちをみなしているのなら、なぜ彼女らをラディカル・フェミニストと呼んではいけないのか」。彼女がここで語っているのが、実際の性別適合手術についてなのか、それとも単に別の性別にアイデンティファイすることについてなのかは不明だが、どちらにしても、法のもとで、あるいは個人として性別を変えようとすることが生産的な目標であるかどうかを問うことは、本来、ラディカル・フェミニストの仕事ではない。ほとんどの倫理的人間は、しばしば生涯にわたる合併症を伴うような実験的手術を延々と施すことで、個人が最高の人生を送ることができるのかどうか疑問に思うことだろう。同様に、ほとんどの倫理的人間は、男性が女性の空間に無条件にアクセスすることを支持しないだろう。ラディカル・フェミニズムとは、それが覆すべきだと考えている世界と力関係についての特定の分析である。世界のほとんどの人は、ラディカル・フェミニストの分析に共感したり受け入れたりしていないが、それでも、なぜ男性は女性の更衣室には近づかないほうがいいのか、なぜホルモン剤や侵襲的な手術ですべての問題が解決するというのが悪い考えであるのかを理解している(はっきりさせておくが、私は、大人が希望すれば美容整形手術を受けることを止めさせたいと思っているわけではない。私が考えているのは、トランス自認の人々は、「性別移行」に関連する合併症、危険性、身体的な現実について適切に知らされていないということだ)。

 バトラーはさらに、セックスとジェンダーをいっしょくたにしている。これはトランス論争の根底にある最も基本的な混乱である。「フェミニズムは常に、男であることと女であることの社会的な意味がまだ定まっていないという命題にコミットしてきた」、「ジェンダーの厳格に生物学的な理解に戻ること、社会的行為を身体の一部に還元すること、あるいは、トランス女性に対して恐怖に満ちた空想、自分たち自身の不安を押しつけることは、フェミニズムにとって大惨事だろう」と彼女は述べている。

 ジェンダーの理論家に「ジェンダー」の意味を説明したり、フェミニストが前世紀から主張してきたこと、すなわち生物学的な性別が男性的、女性的というステレオタイプや役割にその人があてはまるかどうかを決めるわけではないということを指摘しなければならないのは奇妙に感じるが、残念ながらそれが現実だ。私をはじめ多くの女性たちが「セックス」とは身体と生物学に関わるものであり、「ジェンダー」とは各人の性別に押しつけられた、ないし想定された社会的役割のことであると辛抱強く説明するたびに、バトラーは子供のように耳をふさいでいるとしか思えない。私たちは、たとえば女性らしさに憧れているからといってその人が女性になるわけではなく、女性(female)であるという事実によってだけ女性(woman)になるのだと主張してきた。むしろ、退行的で性差別的なジェンダー役割やそのステレオタイプにアイデンティファイすることが、男か女かを定義するのだと主張してきたのは、ジェンダー・アイデンティティの活動家たちの方である。つまり、男らしさよりも女らしさを好むことが、実際に自己の生物学的構造を決定しているというわけだ。バトラーは自分自身に反論している。

 彼女は、「フェミニズムの目標を達成するためには、女性――あるいはどんなジェンダーであれ――についての定まった考えが必要なのか」と問う。私であればそれに対し、もちろんだ、と答える。フェミニズムが存在する唯一の理由は、女性のために主張することだ(もちろんジェンダーのためにではない)。もし女性(woman)というもの(つまり、adult human female)が存在しないとすれば、フェミニズムも存在しない。そしておそらく、世界中の女性の諸権利が実現され、女性に対する男性の暴力が終われば、フェミニズムも必要なくなる。しかし、フェミニズムを支持する一方で、女性など存在しないと主張することはできない。

 バトラーがインタビュアーに語っているように、私たちは確かに「反知性的な時代に生きている」が、その責任の大きな部分はバトラー自身にある。彼女は自分自身の主張を理解していないし、一般の人に理解してもらうことにも関心がない。彼女は誠意を持って行動することも、物質的な現実の中で行動することも拒否している。彼女は、「TERF」とレッテルを貼られた女性たちが直面している暴力的な脅威を否定し、話題をすぐに「オンラインでも個人的にも起こっているトランスの人々とそのアライに対する暴言」に移し、それによってあたかもある間違いが正しいことになるかのように、あるいはある間違いを議論する必要性が消えてなくなるかのように振る舞っている。彼女は、「私たちはまた、それがどこで起こっているのか、誰が最も深く影響を受けているのか、そしてそれに反対すべき人たちによって容認されているのかどうか、これらについて大きな構図を持っているべきだ」と言うが、彼女自身はそうすることを拒否している。女性の権利とスペースに対するこの攻撃によって、女性――世界の半分を占める――が最も深く影響を受けており、これに異議申し立てをしているのは女性であり、最も激しい暴言を浴びているのも女性だというのにだ。バトラーは「ある人々への脅しは許容できるが、他の人々への脅しは耐えられないというのはいかがなものか」と付け加えているが、実際には文字通りこれを実行しているのは彼女の方だ。彼女は女性が1日に受ける暴力の数が、世界的に見ても、トランスアイデンティティを持つ人々が1年に受ける暴力の数よりも多いという事実にもかかわらず、女性が直面している事態に平然と無関心を装う。そして、疑問を呈する人たちが悪党扱いされている一方で、トランス運動がソーシャルメディアで称賛され、医療、教育、主流メディアで制度化されている事実にも目をふさぐ。

 尊敬されている学者が、自分自身の主張や議論を理解することすらできないほど深く混乱していることは驚くべきことだが、これはジェンダー研究のような分野の状況を物語っているのだろう。その分野では、学者たちはお互い同士の評価にあまりにも深く足を取られていて、自分で考える必要があるとさえ感じなくなっているのだ。彼らが必要としているのは、相互に肯定しあって、資金援助を受け続け、雇用が維持される、終わりのない集団的自慰だ。そこでは有用性も理性も呪われてしまう。私たちがみなこの集団ゲームに参加するようになれば、脅威は何もない。実際、これがトランス活動家の戦術でもある。「議論をしない(no debate)」が彼らにとってマントラとなり、自分たちの意見を擁護しなければならないという屈辱から彼らを救う。

 バトラーは自分のキャリアがこの茶番劇を続けることにかかっていることを知っており、そうしておけば誰も彼女に攻撃してこないと信じている。彼女は引退するまで声望を維持することができ、経済的にも安泰であり、したがっておそらく、誠実さの欠如と二枚舌人生を送ることにも満足していられるのだろう。
 もし彼女がこのインタビューを受けていなかったら、彼女がいかにペテン師であるかを私は忘れていたかもしれない。だから、そのことを私たちに思い出させてくれた彼女に感謝しないわけにはいかない。