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チャーミーの独白

蚊取り線香を眺めるのが好きだ。
グルグルと火種が燃え、次第に小さくなり、そっと消える。自分の役割に重なるようで。

魔法は大きな力だ。
ゴツゴウシューギなんてふざけた名前だけど、自分に都合のいいように事象を曲げる……なんでもありな力。
そんな力を持って人間界に放たれる。
長い歴史の中で自分たちの力を利用して滅びた様しか見なかった。人は小さな欲や小さな正義感から段々増長していき、欲で滅びていく。
そんな展開を何度も観てきた。
それだけじゃない。大きな力は竜巻のようなものだ。だからこそ、時に自分の意図しない方向で誰かの人生が変わってしまうこともあった。
大きな力は責任がともなう。それゆえ、自分の力に責任を持つ為には、それ相応の倫理観が必要で。
妖精である自身の倫理観と、人間の倫理観などを物差しにして魔法を扱う必要がある。
死んだ人間は生き返らせられない……なんて喜多さんには言ったけど、それは嘘だったりする。
それはこの時代の、人間の生命倫理にそぐわない。人は死んだら生き返らない。
残酷だけれど、それを曲げて、願いを叶えることは……その人の幸せに繋がるだろうか?
その一時はそれでいい。死んでも、殺しても魔法で生き返らせられる。その可能性を握ってしまった人間は幸せなのだろうか?
と考えると、嘘をつかざるをえなかった。

人間の輪廻の過程の一場面。
それを見守ること。
今回なら野呂野呂亮の一夏、になる。
それによって、神様の裁定がくだされる。
神様についても、裁定についても人間に対して正確や言葉ではないけれども、そう便宜的に仮定した方が話が通りやすいので、その言葉を使う。
場面場面を切り取って判断がされることに自分の役目の理不尽さを痛感することもあった。

誰の輪廻の過程かはランダムで決められる。
輪廻という言葉を使うと、同じ魂をもった人間が繰り返し、繰り返し……をイメージされるだろうが、時代や環境の違いは大きい。
人生40年の時代と、人生100年時代の価値観が同じわけがないし、
日本の東京と、ベネズエラのカラカス。同じ首都の人間で同じ価値観な訳がない。
環境因子だけに目を向ける人間を見ると、自分の個体というケースが軸になった(妖精から見て)統計にもならない例をもって訴える様は、それはそれで変な話なのだが……。
とりあえず、この一例を報告する。それだけの流れだ。
裁定の結果は……歴史のみぞ知るってやつだ。
裁定は自分や人間の知る由もない神様の物差しで測られてしまう。
どこからどこまでが神様の裁定かまでは、それも自分に知る由もない。

この野呂野呂亮という人間は魔法を使おうとしないと言った。それが彼にとって幸せだとは思わないが、魔法による不幸にも繋がらない……のは自分にとって憂慮する点が減ったことを意味する。

ただ,その友達である喜多明里が魔法を必要としてきた。どの世代でも他者も魔法を必要としてくるケースがあった。
……リコピン教とやらを解散させることも、喜多さんがそれに手を下すことも魔法の力を使えば簡単だったりする。
それを簡単に許していいか考える時間が欲しいから、あの場では時間が欲しい旨を伝えた。

蚊取り線香がそろそろ燃え尽きる。
リコピン教が本当に解散すべきなのか見極めたいのも本当だ。確かに私自身も好ましい思想の団体だとは思っていない。
1人の願いで他者を大きく巻き込むのは……力を振るうものとしてどうなのだろう?
とはいえ、願いの規模が規模だけに、それは免れない。
人の信仰のスタンスは人それぞれ。信仰の程度も人それぞれなのだから。
……その調査も終わった。喜多さんへの連絡も野呂亮に頼もう。


2024 day18 蚊取り線香

後書き
すみません。お題見たときにテキトーに考えました。
私が小説向いていない性格全開なのがうかがえますね。
神様という概念がなぜ都合よく人間と同じ形なのか?
仮に神様が人の形で、人間を自分の形にしたというのならばルッキズムがうまれるのは何故なのか?
ドラえもんとのび太くんでは時代も、種族も、話されていた言葉(流動的なはずなので)も違うはずなのに友達でいられるか?
つっこむのも野暮な気もする様々な問題ですが、書きながらそちらに思考がいってしまい、自分の文章の全てが矛盾だらけに見えてくるという……そんな自分を誤魔化す魔法としてゴツゴウシューギがあるのだとメタいことを書いてみます。

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