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「目立つ競争」はどこまで続くのか

歳のせいにしたくないのだが、街を歩いていて「疲れる」と思うことがよくある。

とりわけ繁華街の渋谷など、それぞれの看板が目に止めてもらおうと、これでもかというほどに凝った仕掛けをしてくる。色や言葉の細工、動くものや動画を活かしたもの。これが都市の賑わいの一つでもあり、刺激的な街になっているのも確かなのだが、日常として味わうと正直、疲れる。さらに言うと、音を出す店、それに音を出しながら宣伝するクルマなどがさらに疲れる。

疲れるのは、こちらの感覚を刺激するからだろう。無視すればいいのだが、看板や文字など嫌が応にでも目に飛び込んでくる。刺激的な色やフォルムも目に飛び込んくる。それらを見て、頭の中で「これは、そういうことか」と無意識に処理しているから疲れるのだろう。余談だが、注意書きばかり貼ってある宿泊施設に泊まった時も同じことを感じた。スマートな宿は貼ってある文字が少なく、それが自宅にいるような居心地の良さとなっている。

結局、繁華街は「目立つ競争」に明け暮れている。人の注意(アテンション)を少しでも自分の看板に向いてほしい。それを広告を出す多くの人がやるから、これでもか、これでもかの競争になる。それは、人のアテンションを奪い合う競争であり、無防備に五感を開いていると、無数のノイズにさらされることになる。

同じことはネットでも起こっている。インスタ映えもそうだし、過激さで勝負するユーチューバーも同じではないか。目立ってなんぼ。一人でも多くの人に見てもらって「いいね」の数を、動画の再生回数を競う。目立つことでアクセスを増やし、それが承認なり、あるいは収入などに直結する仕組みが、人をますます「目立つ」競争に駆り立てる。

SNSを見ていても、個々の人が自分をブランディングしようとすることが無意識の「目立つ」競争になっている側面がある。日常の「ケ」の日は淡々としていて人の印象に残りにくいから、旅行など滅多に体験しない「ハレ」の投稿が多くなる。「人と変わったことをしている」「人と違う」アピールが多くなり、SNSに並ぶ投稿が賑やかで派手なものになればなるほど、その分ノイズも増えてくる。若い人が、年配者の自慢話の投稿に嫌気がさしてフェイスブックから離れていくという話を聞いたことがある。何か特別なものを出して自分の個性を表現しようすることが、「目立つ」競争と同じ構図を作ってしまっているのではないか。

小さな無数のノイズが僕らを苦しめる

なぜ「目立つ」ことを求めるようになるのか。ここには、確率の思考が強すぎるような気がする。つまり、1000人の人が通り過ぎる中で、100人の人の目に止まることで10人の人が店に入ってきてくれる。そして、その10人のうちの3人が買い物をしてくれる。こんな確率を計算すると、「多くの人が通り過ぎるところで、一人でも多くの人の目に止まることが売上アップにつながる」と言う論理になる。

同じような発想は、ダイレクトメール(DM)やメルマガの世界にもある。10万人の人にメルマガを出してコンバージョンが0.01%で、100人の顧客を獲得できる、などである。とりわけDMと言うアナログの媒体からデジタルであるメルマガなどに移行してから、この発想が強まった。アナログの媒体は印刷費や送料がかかるので、送付先数に応じてコストが増えるが、メルマガなどは100人に届けるのも100万人に届けるのもコストはほぼ変わらない。そこで一人でも多くの人に送ることでコンバージョンは変わらなくても顧客は多く獲得できるし、2倍多く送れば、コンバージョンが下がっても顧客の獲得数が増える。そうして、人は受け取るメルマガがますます増え、開封されないものが膨大になっていく。これは無駄はないといえば無駄はないが、果たしてそれでいいのか。少なくとも99%以上の無関係な人が、それらに小さな不快感を感じている事実は残る。

街の賑やかな看板も、ネットの投稿も、ダイレクトメールも、一つひとつを見れば、嫌だったら無視すればよくて、角を立てて非難するほどのものではない。どこにでもあるちょっとしたノイズに過ぎない。しかし、これらが無数に押し寄せてくる世界はノイズにあふれ、好きなものを得るため感覚をフル稼働させ、そこらからほしいものを嗅ぎ分ける労力と神経を使わせる。これが疲れる。

自由な競争から生まれる資源配分の効率に意義を挟まない。しかし、それが「目立つ」競争をもたらし、それらにさらされる社会が被る「疲れる」コストは、すでに無視できないレベルに達しているのではないだろうか。この負のサイクルはいつまでも続くのだろう。

ルールを変えると、競争のインセンティブも変わる

先日、クルマで那須に行った。帰りにセブンイレブンに寄って気がついたのだが、いつものロゴの色と違い、白と茶色のロゴであった。見渡してみると、ドラッグストアも銀行も他のコンビニ、あるいは地元の不動産屋さんまで、同じように茶色のロゴになっている。同じような色彩でできた通りは実に落ち着く。「那須」という自然豊かな場所に来ていることも実感できる。

自宅に帰って調べてみると、那須塩原の景観条例により使用する色彩が決まっているようだ。特にセブンイレブンは世界的にも例を見ない、通常のロゴではない看板を掲げた先進事例になったという。このあたりは観光地だが、御用邸もあり、どちらかというと賑やかなというより落ち着いた観光地である。その雰囲気を壊さないように景観条例が効果的で、とても落ち着く。

全国チェーンの店舗や飲食店が増えたことで、今や日本はどの駅を降りても目にする看板が同じものが多く、その街自体の「らしさ」が感じにくくなっている。那須のような景観規制は、看板の存在感を弱めることで、却ってその土地の持つ個性が浮き上がってくる。街の「らしさ」を表現することにも役立っているのだ。つまり、個々にそれぞれの表現を控えることで、街全体の魅力が伝わってくる。こうして街の魅力が引き出され、多くの人を惹きつけることで街全体にとって恩恵を被ることができれば、個々の店にとってもハッピーである。

このnoteもそれに近いかもしれない。noteで投稿をしている人は、人目を引こうとエキセントリックなことを記事をあげる人が少ない。それぞれがそれぞれ好きなことを投稿しているような落ち着きがある。書式などの設定はシンプルで、個人でカスタマイズできる部分は少ないが、だからと言ってそれぞれの人の個性が発揮されにくい状況になっていない。むしろシンプルなルールが、それぞれの人の個性を浮き出させている要因になっていると思える。また、noteには広告もランキングもない。だから目立つことができないし、目立とうという競争にならない。それでも面白いコンテンツは自然と浮き上がってくるし、人のクリエイティブの多様さがよく分かる。

市場を規制したり、プラットフォームが制約を設けることが、必ずしも個々の自由な活動が制限されるわけではない。自治体やプラットフォーマーは、このようにゲームのルールを作ることができるのだ。ルールを変えると、そこに参加する人のインセンティブと行動が変える。実際に、このnoteは昨年あたりから利用者が急増しているが、目立とうとした宣伝を見たことがない。シンプルなルールで場を魅力的にし、それが知れ渡ってきたからではないだろうか。目立つ競争をしなくても、個性や「らしさ」、そして本物の価値は自然と浮き上がってくるものである。

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