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人は人との格差を認めることができるか?

以前、ある著名な科学者がポツリと語った言葉が忘れられない。

「社会は身体能力の差は認められるのに、頭のことになると、そう認められないんだよね」

また就活中のある女性は、こう言った。
「内定もらうには、やっぱり美人が有利なんですよね」と。

どちらもドキッとさせられた。モヤモヤと頭の中を回遊していたものを、言葉で固定される怖さである。善し悪しの問題でなく、どちらも理屈でなく肌感覚で感じることだったからだ。

仕事を通して、手も足も出ないほど圧倒的な知性を持った人に会ってきた。一流大学を卒業しているとかで説明がつかない、日々積み上げてきた知の力をまざまざと見せつけられることがある。そんなとき、この人にない自分の強みは何だろう?と考える。

学生時代にやっていたサッカーでも似たような経験をした。ボールを蹴り始めたその日から「ものが違う」という仲間を見てきた。その身体能力の差はどうやって埋めればいいのか。それでも仕事の場合は、使える武器が多いのでまだなんとかなるだろうと楽観的に考えることができる。ただし、そこに自分との間にある「力の歴然たる差」は認めざるをえない。

この問題を回避するには、「人との比較をやめる」ことしかないと自分に言い聞かせるが、これは簡単でない。人は人から刺激を受ける。それは人と関わる楽しさでもあり、人から刺戟を受けない人生はとてもつまらないと思う。その副産物なのか、人と自分を比べてしまうのは、社会性を持った人間にとって避けられないことのように思える。

満を辞して『格差という虚構』を読んだ。著者の小坂井敏晶さんは、社会心理学者で、僕はこれまで『社会心理学講義』『答えのない世界を生きる』『責任という虚構』を読んだことがある。どの本も、考えてきたことの深度が浅かったことを突きつけられる本だ。例えば、『責任という虚構』では、責任を負うべき「主体性」とは、どこまで社会と切り離されているのかと問われる。その行為を正当化させた社会の影響を抜きに、行為を語れないというのだ。

本書『格差という虚構』は、「今の社会に格差など存在しない」と主張している本ではない。むしろそんな誤解を生むであろう表現も確信犯ではないかとさえ思うが、格差も能力も、社会が人が自由な存在であると宣言するための装置に過ぎないという。

そして「人間は他者との比較を通してアイデンティティを育む。したがって格差のない社会に人間は生きられない。経済格差を少しでも減らせば、問題解決に近づくのではない。逆に差が小さくなればなるほど、その小さな違いが人々をますます苦しめる」(p.24)と社会の本質を描く。

この本を読むと自分の中で蓋をしていた2つの箱を開けることになる。

一つは、自分が持つ劣等感と優越感の折り合いの付け方である。優越感は劣等感の裏返しに過ぎない。自分に優劣を感じるその気持ちの持ちようが、別の場面で劣等感として顔を出す。自分が何者であるか。自分の強みは何かを、他者との比較なしで形成することはできるだろうか。小坂井さんの言葉で言えば、他者との比較なしに自己のアイデンティティを確立できるかという課題だ。社会に開かれた自己を果たしてどこまで閉ざすことができるのか。誰もが自分のアイデンティティを確立しようともがくこと、それが社会の格差を生んでいるのか。

もう一つは、社会の構造をどの視点から見るかだ。社会に居場所のできた人はそれでいい。居場所は、自分で感じるものだが、それを形成する上で、社会からの承認が果たす役割は大きい。一旦、自分の居場所が出来上がると、その場所が見つからずもがいている人の存在を忘れがちになる。

「頑張れば、誰もが成功する」は本当なのか?「頑張る」ことは誰もができるのだろうか?そして「頑張れない」人がいたら、それはその本人の責任だとし、社会は頑張るチャンスを平等に与えることで十分と言えるのか。

僕自身、頑張れる自分と頑張れない自分の両方を知っている。「頑張れる自分」は社会が評価してくれるが、「頑張れない自分」は「個人的な事情」という社会との無関係な分類をされる。「頑張れない」のは自分で自分を振り立たすしかない。ここで、自分を鼓舞することができる人、できる場合は何ら問題ない。しかし、自分を鼓舞することができない状態の人がいないとは思えない。そんな人が社会から退場したくなり、それだけの理由で社会を攻撃することもあるだろう。

頑張るのも自由、頑張らないのも自由。自由なのだから自己責任。社会に「よし」とされる価値観が共有されている以上、そこに能力や格差は本質的になくならないと著者はいう。

「あとがき」で著者は、「本書を綴った最初の動機は不平等に対するやり場のない怒りだった」(p.335)と記す。だからと言って本書は格差ある社会に対して、あるべき論を示すのではない。「自由・平等・主体など近代のキーワードをめぐる本書の議論は、それらをどう規定すべきか、どう考えれば社会が安定し人間が幸せになるのかという問いではない。それらが現実にどのような存立構造をしているか、社会でどのような機能をになっているのかの分析だ」(p.27-28)と宣言する。本書が読む人に畳み掛けるその迫力は、傍観者の分析ではなく、やり場のない怒りを持った人物による、冷徹なまでの現実直視と思索の賜物だ。

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