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『社会心理学講義』を読むということ

読書という表現は乱暴である。さらっと読むこともあれば、ストーリーを追いながら読み続けることもある。字面を追えば理解できる読書もあれば、何度も戻りながら理解する読書もあり、はたまた行間を読み取る読書もある。かように「読書」を一括りに表現するのはあまりに雑である。

久しぶりに、一文字一文字、気の抜けない読書となった。
それは、著者という一人の人間が知的格闘の末に言語化されたものと真摯に向き合う行為である。本書を再読して、そんな静粛な心持ちを新たにした。小坂井敏晶さんの『社会心理学講義』である。

冒頭から著者はこう宣言する。

社会心理学講義とはいえ、概説や入門書ではありません。(中略)個々の内容よりも社会心理学を批判的に検討します。(P.11)

ご自身の専門分野を紹介するのではなく、批判的に検討するというのだ。のっけから戦闘態勢に入る。守りではなく攻め。この分野で定着した考え方を、門外漢の人に紹介するという姿勢ではなく、その一般化された考えに対して疑ってかかろうとする。この冒頭の宣言に、本書の真髄が全て網羅されているかもしれない。

僕自身、社会心理学は専門外だ。その研究対象は、あくまで人間であり、その人間を独立した主体的な個体として見るのではなく、時代や環境からの相互作用で形成される社会的な影響を受けて行動する人間像として描く。同時にそれぞれの個人間の相互作用が社会を形作る。そう理解した。

学問分野として門外漢だが、体験として、思い浮かぶことは多々ある。服装の好みはほとんどないが、いざ新しい服を買おうとすると、「これがいい、これは嫌だ」という好みがどこかしこから浮き上がってくる。気がつくと、それは最近の流行であり、無意識のうちに街で見る人々の服装から、自分の好みが形成されているのだ。「自分の好み」と思っている嗜好も、その根拠は脆く、実は周囲の人の影響を多大に受けていることに気づくことがある。

本書でも紹介されている「スタンフォード監獄実験」は人の意思がいとも簡単に変わる有名な事例である。この実験では、アルバイトで被験者を募り、看守役と囚人役に分かれて2週間、実験のために作られた監獄で過ごしてもらう。ところが実験が始まるや否や、看守役の被験者は凶暴さを剥き出しにして、囚人役の被験者をいじめ出した。実験は6日目に中断されたのだが、人はおかれた環境でいともたやすく自らの人格と異なる行動をするかを示すことを顕にした。

この実験に自分が参加していたらどういう行動を取っていただろうか。自分の意思とは果たしてどこまで自分の内面から湧き出たものであり、社会や他者と無関係に形成されていると言えるのだろうか。

著者はこのような主体的な意思を「虚構」だという。実態のない、その形成要因も曖昧でありながら、当人たちが信じているにすぎない虚構だと。そしてそもそも意思など存在しないのだ、と。個人の自由意志を否定すると、そもそも行為の責任はどう説明するのか。それに対し、著者は責任という概念さえも「虚構」だといい、行為の責任を一人の個人に負わせることの限界を指摘し、その行為を正当化させた社会の影響を抜きに、行為を語れないという。

自分の「意思」は虚構である、と。本書では、それをいやというほど論理的に説明される。となると僕らが日頃考えている「どうすべきか」という意思決定の正体は何なんだろうか?「自分は何をしたいのか」「何をすべきか」。人生の悩みと言えば、これら「意思」に関わることが中心だろうが、それが虚構の産物だということになる。染み付いた「当たり前」をここまで覆される経験は滅多にないものである。

本書を読むのは2度目だが、わかったつもりが再読してみると、自分は本書の「問い」に対し、いまだ自分なりの答えを見出していなかったことに気づく。そして、それを答えたつもりになり、また未解決の仕事にチェックマークを入れるかのように、蓋をしていた自分に気づくのだ。

そんな小坂井さんに、(幸か不幸か)インタビューさせてもらう機会を得た。来月(2021年4月)からNewsPicksのNewSchooolで開講する「アウトプット読書ゼミ」で本書を課題著書とすることが決まり、その告知記事としてインタビューさせてもらったのだ。

自分が衝撃を受けた本の著者に話を聞ける機会は、最も熱望する体験である。ただ無邪気に楽しみなだけでなく、独特の緊張を伴うものだ。それは憧れの人に会うことの怖さのような感覚である。

Zoom越しでお会いした実際の小坂井さんは、肩の力の抜けた柔らな人あたりの方であり緊張は一気にほぐれた。同時に、その一つひとつの言葉は、本を読んだ時に勝る思考の根本的見直しを迫られるものだった。よかったら上の記事を読んでみてほしい。

冒頭から常識を覆させられた。「問い」の重要性を説く小坂井さんに、僕は「自分の頭で考える」ことの大切さを語ってもらおうと考えた。ところが、小坂井さんは、「そもそも、なぜ自分の頭で考える必要があるのか」と逆に問いかけられた。自分では何ら疑ったことのない考えであり、それ以上を言葉にしたことがなかった。このようにんインタビューは終始、こちらの「当然」を問い直させられるものであった。

この「常識を疑う」ことこそ、小坂井さんの真骨頂である。
本書『社会心理学講義』の中でも、常識の蓋をこじ開けようとする、数々の言葉があふれている。それらは実にラジカルで、そこだけ取り出すと誤解を与えかねないが、これを読む人は文脈の上で書かれた文章であることを理解してくれると信じて紹介したい。

例えば以下のような言葉が連なっている。

・権威に頼ってはならない。ソクラテス・デカルト・フロイトが言おうと、隣りのおばさんや横町のご隠居が言おうと同じこと。勝負するのは内容です。それが誰のアイデアなのかは重要ではない (p.38)
・理論の正しさを確かめるために実験をするのだと普通信じられていますが、その発想自体がつまらない (p.51)
・好きな理由が明確に意識されるようでは、恋愛感情は芽生えない(p.106)
・人間は自由だから、そして人間の意志が決定論に縛られないから責任が発生するわけではない。人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由だと思い込むのだ (p.126)
・悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのです (p.129)
・科学的真理とは科学者共同体のコンセンサスにすぎない (p.133)
・驚きをもたらさない理論は退屈ですし、簡潔さを尊ぶ美意識が科学では重要です (p.177)
・強制の元に行動しながら、我々の態度・意志・信条がつくられます (p.191)
・知識人は理屈をこねて自己の立場を正当化しやすい(p.195)
・犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです (p.269)
・少数派が行使する影響は盲目的な追従や模倣ではない。常識を見直すきっかけを少数派が与え、そこで新しい発見や創造が生まれる (p.298)
・太古から続く伝統などというものは、たいていが後の時代になって脚色された虚構です
(p.314)
・矛盾が想像を生む泉だからです。知識とは常識を破壊する運動です。常識や従来の理論ではうまく説明できないから、矛盾が起きる (p.341)
・人間が善悪を判断する以上、どのような秩序を選んでも、それが正しいという保証はない(p.352)
・権利・義務が完全に明示化できれば、人間の世界に信頼は要りません (p.369)
・心の論理にしたがい、社会と歴史の文脈でしか生きられない人間という存在に対する侮辱、これが合理性の正体です (p.370)
・外部から異文化がもたらされなくとも、社会が自ら異質性を産出する。他者は我々自身の中に潜んでいる (p.383)

どうだろうか。これらの問いかけに僕らはどこまでこれまでの常識を捨てずにいられるだろうか。同時に、どこまで「問い」を追求してきたと言えるだろうか。

本書を読む行為はまさに、この自分の常識というパンドラの箱を開けることなのだ。根本を問い直すことは混乱を招く。土台の上に築いた表層の変更ではなく、土台そのものの組み直しを迫るからだ。しかし、骨太の問いを前に、その混乱は避けては通れないものとなる。

『社会心理学講座』は、決して心地いい言葉のシャワーを浴びる読書ではない。頭が混乱する。一方でただその混乱は、モヤモヤが募るものではなく、考える勇気も同時に与えてくれる。それは、著者自身が答えのない問いに挑んでいる、その姿勢が伝わってくるからだ。

自分の無意識を言語化してくれて共感できる本を読むのは楽しい。同時に、自分の常識を覆すかのうような読書も得難いものである。本書はまさにそんな本であり、常識を疑う勇気を与えてくれるだろう。

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文中で紹介した「アウトプット読書ゼミ」はこちらです。本書を題材に、思考する力、問いを立てる力、対話する力を「参加者が能動的に」学ぶ講座です。ご興味のある方のご参加をお待ちしておます。


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