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「読書」は本選びから始まっている

誰にとっても「いい本」は存在するか

書評を書いているからか、「おすすめの本はありますか?」と聞かれることが多い。だが、いつも答えるのに苦労する。考えすぎかもしれないが、僕が読んで面白かった本が、質問してくれた人にとって面白いかどうかがわからないからだ。お笑いが好きな僕は先日、M-1に関する本を読んで非常に興奮したが、漫才に興味のない人にとってはまるでつまらない本かもしれない。

質問をする人は、ただ興味本位に聞いているだけかもしれないが、誰にでも面白い本があるという前提を置かれている人もいるのかもしれない。もしそうであれば、その前提を疑ってみる価値はあると思う。

そもそも「いい本」という言い方はあまり好きではない。すべての人にとって「いい本」などないと思っている。もし「いい本」が社会的に認定されていたら、それはなんと教条的な社会なのだろうか。なんとく多くの人が「いい本」と思う本はあっても、それはそれで、あなたの好きな人が国民的アイドルとは限らないのだ。あるのは、その人にとっての「面白い本」と「つまらない本」。なので、すべての人に面白い本もつまらない本もない、と思うのだ。

面白くない本に出会うのはザラである

この質問を受けると、同時に「本をよく読む人は本選びも上手い」と思われているのではないかと想像してしまうが、これも誤解だと思う。僕は仕事柄、人より読書量が多いのは確かだろう。そして、面白かった本とも何度も出会う。ただし、それは読む本を選ぶのがうまいわけではない。読んで「面白くなかった」と思うことはザラなのだ。面白い本に出会う確率が決して高いとは思っていない。

そんな経験が多いにもかかわらず、読む本が減らないのは、「面白くなかった」読書経験が、決して無駄だったと思っていないからだ。

「読書」は本選びから始まっている

読書は、読む本を決めるところから始まっている。書店で見て「なんか面白そうだな」と直感が働くことがあり、その直感に従って読んでみる。面白かったら自分の直感が当たり、面白くなかったら直感は外れたのだ。バクチっぽく聞こえるかもしれないが、このような成功と失敗を繰り返すことで、直感の精度が上がる。本選びに失敗した場合、この本のどこに「面白そう」と感じたのかを思い出してみる。帯コピーの言葉に引かれたのか?あるいは、カバーデザインに引かれたのか?それらを振り返り、次はもっといい本を見つけ出そうとまた本屋さんにいく。これを繰り返していくと、自分にとっての「面白い」匂いを嗅ぎ分けられるようになる。

こんな経験が増えると、自分の好きな本に巡り合える確率は確かに上がっていく。試行錯誤の回数が多いだけ、確かに人より本選びは上手いかもしれない。しかし、それは、一定の「選んだ」量があるからであり、もちろんそこには無数の失敗もあり、その「量」が確率をあげることにつながったのだ。大事なのは、最初から確率を上がる方法にこだわるのではなく、量をまずはこなすことだ。

ここで「失敗」と書いたが、面白くなかった本に巡り合っても必ずしも失敗ではない。先日読んだ心理学の本は、テーマに引かれて読み始めたのだが、僕にとって面白くはなかった。それは、著者の関心ごとが僕にとって大事ではなかったからだ。しかし、そのテーマにそれだけの関心をもち、1冊の書籍を著すまで突き進む著者の背景にはとても興味を持った。「こういう人はどんな経験をしてきたのか?」と。それは本の内容への共感とはまるで別で、単純な一人の人間への興味である。そして同時に、こういう読書は、自分にとっての関心がどこにあるかをよりクリアに理解できる。

つまり、読んだ本が面白くなかったとしても、その読書が失敗だったということではない。

読書の醍醐味は、失敗にも潜んでいる

もし失敗を避けたければ、一度面白かった著者の別の本を読むことだ。それと、面白かった本を紹介してくれた人の、別のおすすめ本を読むことだ。それは、うまく行ったルートを増やし、それらを毎回使うことで、失敗のリスクは大幅に下げることができる。

ただし、ただしである。この成功ルートばかり通っていると、「それ以上」の世界が広がらない。本という荒野は、一人の人間が知ることのできない、限りない広さが連なっている。新しいルート発見を常にしておかないと、気がついてみると、小さな世界の楽しみの中に埋もれたままになってしまう。

僕は全く知らないジャンル、全く知らない出版社、聞いたことのない著書の本をたまに読む。情報は皆無に等しいが、どこか直感を刺激するのは間違いない。得体の知れない何かでありながら、どこかしら惹かれるような。この得体の知れない本は、やっぱり自分と無関係であることもある。しかし逆にこういう本を読んで、面白かった時の喜びは格別である。大袈裟にいうと、自分の力で、世界を広げたかのような気分になれるのだ。

読書とは、失敗がつきものなのではないだろうか。気になる人も、付き合ってみないとわからない。面白くない本に遭遇することは多々あるが、その可能性も含めて読書なのだ。これは、映画などにも言える。観てみないと本当のところ、面白いかどうかは確信が持てない。だからこそ、面白かった時の喜びはひとしおであり、想像を超えた面白さに出会えることがある。

映画や読書について「失敗したくない」と思う人が多いのも、わからなくはない。つまらない本を読んで、「ふざけんなー」と思ったことは確かにある。そうはいっても、それも含めて読書なのである。楽しむためのスポーツで負けて悔しい思いをするように、コンテンツとの出会いも結果はわからないのだ。それでも、誰かが精力を傾けて表現したコンテンツと触れ合う楽しみは、確実に自分の世界を広げる行為となるのだ。

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