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言葉は、思考をアップデートさせる道具

1年半ほど前から、このブログを始めた。その頃、編集の仕事をしなくなったので、自らアウトプットする場を持たないと何かが退化してしまうのではないかと考えたからだ。これがとてもよかった。

ブログを書こうと思うと、日々の感じたことに敏感になる。人との会話で「なるほどー」と思ったり、街を歩いていて感じた、なんとなくの違和感。これらをネタにブログを書こうとする。ネタを探しているから、感じることに敏感になり、「何であそこでドキッとしたのだろう」と自ら問いかけ、パソコンに向かって書き始めてみる。

これは、自分が感じたことの正体は何だったのか、それに自分が正面から向き合うような行為なのである。あそこで「なんか嫌だなー」と思ったのはなぜか?過去に似たような「嫌だなー」と感じた瞬間はなかったか?それはどんな場面だっただろうか。まさに脳内を駆けずり回って、つながりを探す。それが高速回転してすぐに見つかることもあれば、延々と考え続けることもある。

つながりが見つかっても、何で「つながる」と思ったか、それがよくわからない。今度はつながりの意味を考える。たとえば、栗とハンガーがつながると感じたけど、なんでだろうと。あの違和感とこの違和感に共通していることは何か。一見、共通点がないようなものが頭の中で連想されたのはなぜか。異なる具象から導き出せる抽象を探す。あるいは異なる具象のあいだに何をおけば、この二つのあいだに道を通せるか。いわば「つながり」の意味を見つける作業である。

ここで言葉が見つかると「やった!」という感覚になる。それは、見つかるという表現が正しいのか、行き着くなのか、あるいは降ってわいてくるというのは大げさなのか。演繹的に見出すというより、ある種の飛躍から生まれるように思う。

先日、半年間のベトナムとラオスでの生活を振り返って、「仕事の原点を考える」というテーマで話しをさせてもらう機会があった。僕は、まずその半年間での生活で印象的だった3つのことを思い出した。それらは、ベトナムの山間の村で毎週日曜日に開かれるマーケットの様子であり、ラオスの400人しかいない村に泊めてもらった体験だったり、ラオスでチャリティで食事づくりをしたことであったりする。

生活と仕事が一体化する彼らを見ていると、仕事が楽しいとか楽しくないとか、仕事のやりがいなどといったことが、枝葉のことのように思えた。ベトナムで見たマーケットでの人々の交流、ラオスの村でみたコミュニティ、そしてチャリティで感じた受け入れてもらえている感。これらで感じた仕事の原点ってなんだろう。それは成長や報酬、あるいは社会への貢献という言葉とは次元が違うような気がした。そんな時出て来た言葉は「居場所」であった。

この場合、居場所とは、職場や地域、家庭といった物理的なものもあれば、拠りどころとして自分の中にあることもある。そう、仕事を通して居場所を感じることができれば、だれでもその仕事を楽しめるのではないか。そう感じたのだ。

仕事を居場所と結びつける議論は決して珍しくない。しかし、これは僕にとって大きな発見だった。自分が仕事で楽しいと感じていた数々の経験がこの言葉で説明できるような気がしたのだ。さらに、この言葉が出て来たことで、僕は仕事や社会の見方が少し広がったように思えた。

自分が思ったことを考え、それを言葉にしてみる。それによって、自分が思ったことの正体が明らかになり、自分の考えたことが形として見えてくる。そして、見つかった言葉によって、そのことにケリがつくと同時に、その先の問いが生まれてくる。

日々言葉と格闘するのは、どういう言葉を使えば、伝わりやすいかを考える場合が多い。つまり伝える道具としての言葉である。その一方で、感じたことの正体を明かすために言葉を駆使する。このプロセスで適切な言葉が見つかった時、自分の思考はアップデートされるのだ。

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