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アヤトビト 第2章


第2章 海底にて


「焼き鳥を食べに行こう」

 剣道場の隅でぐったりと動けなくなっていた私は、持丸先輩の声で我に返ります。
「行きたいのはやまやまですが、今はそんな気分じゃ……」
「このタイミングで食い物の話なんかするな。気持ちわりい。なんでお前はそんなに元気なんだよ」
 尊敬する先輩からのお誘いに普段なら心躍るところですが、エアコンが無いせいで息苦しいほどの暑さの道場で、防具を纏って激しい稽古を終えたばかり。三度の食事こそが生きがいと言っても過言ではない私でも、流石に食欲が湧きません。隣にいた香山先輩も同じようです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し。二人ともまだまだ稽古が足りないね」
 私と香山先輩の毛穴という毛穴からは汗が噴き出して止まりませんが、持丸先輩の顔には汗の一粒も浮かんでいません。いつものように、お餅みたいなほっぺでニコニコとしています。

「谷口の野郎、このクソ暑い日に無茶な稽古させやがって。お前が余裕そうにしているからだろ」
「どうだろうねえ。確かに谷口君も器が小さいからなあ。まあそれはともかく、あの保健室での一件以来、足が軽くなってね。いくらでも動けそうだよ」
「そうかよ、よかったな」
 香山先輩にはそれ以上、持丸先輩に噛みつく気力は無い様子。滴る汗はその可愛らしいお顔に儚げな魅力をもたらしていました。床でだらしなく大の字になっていても絵になるのが本当に羨ましい限り。死屍累々な有様の道場に咲く一輪の花のようです。

「おーい、青木くん、ちょっとちょっと」
 少し離れたところで座り込む後輩の青木くんは、手をひらひらと振って持丸先輩が呼ぶのに気付くと、すぐにこちらへ駆けて来ます。部内でひときわ背の高い彼が、首から大きな水筒を下げてどたどたと駆けるのがどこか可愛く思えて、私は和んでしまいます。
「青木くん、これから焼き鳥を食べに行かないかい?」
「いいですね! 香山先輩と彩先輩も一緒ですか?」
「うん、来るって」
「行くなんて一言も言ってねえよ! ふざけんな!」
 持丸先輩も香山先輩も間近に迫った大会に向けてそれぞれ立派に団体戦チームのレギュラーに選ばれているのに、その独特な個性のせいか部内で浮いてしまっていました。でも、こうやって二つも学年が下の後輩にも気さくに接するお二人のことが私は大好きで、尊敬して止みません。
「だいぶ髪の毛が伸びたてきたね」
「はい、彩先輩。おかげさまで」
 青木くんはイガグリの様な頭に手を当て、恥ずかしそうにしています。

 二ヶ月ほど前、私は彼のおでこに重い木刀を投げ当ててしまいました。腫れてしまったおでこを診てもらおうと保健室に連れて行けば、そこに現れたのはなんと幽霊。持丸先輩は足を切り落とされ、青木くんは坊主にされた頭をドリルで掘られてしまったのです。幸い、持丸先輩の足はすぐ元に戻してもらえましたし、青木くんの頭の腫れも引きましたが、髪の毛は元に戻してもらえませんでした。

「青木、お前っていつもそんなデカい水筒を持ち歩いてんの?」
「彼といえばこの水筒じゃないか」
「すみません。俺、どうしてもコップの共有ができなくて……」
「ああ、わかるわ。私も男子だったら絶対に無理」

 稽古中の水分補給の為に、道場にはウォータージャグが置かれています。そこからコップにスポーツドリンクを注いで飲むようにしているのですが、女子部員は人数が少ないのもあってそれぞれに専用のコップがある一方で、男子部員は共有して回し飲みしていました。それが苦手な青木くんは入部以来、3Lは入りそうな大きさの水筒を常に携帯しています。

「僕らが引退する前に部費でコップの数を増やして、男子にも一人ずつ持たせてあげたいねえ」
「お前にそんな権力も行動力もねえだろ。適当なこと言ってんなよ」
 持丸先輩はさらっと言いますが、「引退」という言葉に私は憂鬱にさせられます。この夏が終わる前、次の大会が終わった後に、お二人は部を去ってしまいます。一年生の頃から仲良くしてもらっていましたが、保健室での一件以来、特にこの四人で一緒にいる時間が多くなっていました。今みたいな時間がずっと続けばいいのに。引退なんてしなければいいのに。これから先を思うと寂しくてたまりません。

「コップもそうですけど、色々と細かいところを俺らで変えていけたらいいですよね」
 真っ暗な海の底へ沈んでいく、そんな気分になるのを察してくれたみたいに、青木くんは私に笑顔で話し掛けてくれます。青木くんはいつもそう。見透かしたように、絶妙なタイミングで沈んでいく私をすくい上げてくれます。何を食べて育ったらこうなるのでしょう。
 いろいろと迷惑かけてばかりの私には先輩としての威厳もへったくれもありませんが、その笑顔を見ていると彼のような後輩がいてくれて本当に幸せだと思えるのでした。



 着替えを終えて道場を後にした私たちは結局、焼き鳥屋さんに向かっていました。持丸先輩がどうしても食べたいと言うのと、私も香山先輩も汗が引いたらお腹が減ってきました。
「そんなに言うからには、さぞかし美味い店なんだろうな?」
「いや、僕も入ったことはないんだ。たまたま今朝見つけたお店でね。稽古中、そのお店のことが頭から離れなかったよ」
 私と香山先輩は持丸先輩の後に続き、学校からほど近い国道沿いを歩きます。谷口先輩に呼び出された青木くんは後から合流することになっていました。

「谷口の野郎、青木に何の用だ」
「僕たちのせいで何か言われているのであれば、誠に申し訳ない限りだね」
「どうせ私らもすぐに引退なんだからほっとけばいいのによ。本当に女々しい野郎だな」
 お二人が気付いていたかはわかりませんが、先ほど道場で私たちが四人でいるのを、谷口先輩は離れた場所からじーっと眺めていました。その表情は、視線の先に何か汚い虫でもいるかのよう。青木くんが私たちと仲良くしているのを良く思っていないのは明らかでした。
「目を掛けられているからねえ。あの身長から繰り出される打突は強烈だよ」
「レギュラーには割って入れませんでしたけど、補欠に選ばれましたよね。すごいです」
 こうやって青木くんのいないところで彼の話をしていると、なんだか遠い人のように思えます。剣道が強いわけでも、美人で気が強いわけでも、背が高いわけでもない。お二人が引退した後も、こんな私と引き続き仲良くしてくれるのでしょうか。そんな不安が重りのようになって、私は再び海底へと沈んでしまいます。

「彩の家ってこの辺だったよな?」
 海底をぼーっと歩いていたら、香山先輩の声で意識を取り戻しました。
「そうです。この辺りにはあまり来ませんけど、通っていた小学校がすぐ近くです」
「ああ、そうだったのか。じゃあ彩さんは知っているお店かもね。もうすぐだよ」

 それから間もなくして、持丸先輩は少し濁った黄色い看板の下で立ち止まりました。そこに赤く「ほり江」と店名が書かれているのを見て、私は文字通り目玉が飛び出そうなほどに目を見開きます。
「いい雰囲気だろう。このお店が醸し出す昭和の息吹に当てられてしまってね」
「お前は昭和を知らねえだろ。また適当なこと言いやがって」
 頭上から吊るされる「焼き鳥」と書かれた提灯の数々、外壁にぺたぺたと貼られたお品書き、豊富な種類の焼き鳥がみっちりと積まれたショーケース。確かに昭和の雰囲気を感じるこのお店を、私はよく知っていました。
 そして、ショーケースの下でお腹を出して座り、L字に広げた足を無心で舐めている猫にも見覚えがあります。グレーの美しい毛並みに赤い首輪。その子は私が以前飼っていた猫のビトにそっくり。私の視線に気付くと、逃げるようにしてどこかへ走り去ってしまいました。
「あーあ、逃げちまった。触りたかったのに」
「美しい猫だったねえ」
 猫のことも気になりますが、それ以上に私も今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られます。これは何かの間違いとしか思えません。足りない頭でなんとかお二人を引き返させようと、「焼き鳥はやめて家であやとりしませんか?」などとよくわからないことを口走りそうになったところで、伸びやかでよく通る懐かしい声が聞こえました。

「いらっしゃい! 何にする?」
 ショーケースの向こう側からひょっこりと顔を出したのは、弾けるような笑顔の女性。
「うーん、ねぎまは外せないよねえ。後はなんこつかなあ」
「私はハツ! ハツが食べたい!」
 女性の後ろ、店内の奥には不機嫌そうな顔をして黙々と焼き鳥を焼く男性が見えます。その手元から広がる香ばしい炭火の匂いに、食欲を刺激された様子のお二人。さっそく注文を始めてしまいます。
「おい彩、急に縮こまってどうした。やっぱりまだ食欲ないのか?」
 いつかの逆で、香山先輩の背後に隠れるようにして俯く私。気配を消しているつもりが、お店の女性はすぐに驚きの声を上げます。

「ねえ、あなた、もしかして彩ちゃん? そうよね、絶対そうよ!」

 最後に会ってから何年も経っていますし、私はすっかり成長してしまっているのに、洋子お姉ちゃんは私に気付いてくれました。



 それは決まって剣道教室が終わった後。私はよく、お母さんと「ほり江」で夕飯に焼き鳥を買って帰りました。
 通っていた小学校の体育館で行われた教室からの帰り道、剣道を始めたころの私は泣いてばかり。周りの子はすでに防具を付けて打ち合っているのに、初心者の私はうまく竹刀を振ることもできないばかりか、満足に一人で道着に着替えることも出来ません。悔しいしつまらないしと、お母さんに手を引かれて泣いていた私に洋子お姉ちゃんはいつも優しくしてくれました。  
 店主の一人娘だった彼女はお店の手伝いをしていて、確か当時は大学生だったはず。私が行くといつも「かわいい、かわいい」と連呼して喜んでくれました。思えばあの頃が人生のピークだった気がします。もう何年もあんな風にかわいいと言われていません。

 洋子お姉ちゃんは私が泣いていると、サービスでつくねを一本手渡してくれました。その場で口にすると、じわっと滲む優しい脂の味に涙は止まり、辛かった出来事も忘れてしまいます。食い意地の張っていた私はその味が楽しみで、剣道教室に慣れて泣くことが無くなっても、お店の前で無理矢理泣こうとしてお母さんに呆れられたのが昨日のことのように思い出されます。



「彩ちゃん、本当に大きくなったねえ」
 久しぶりに会う洋子お姉ちゃんは時が止まったように何も変わっていませんでした。いつも頭に巻いていた黄色いバンダナも、よくとおる声も、ひまわりみたいに眩しい笑顔も、全部あの時のまま。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「元気、元気! 相変わらずやってるよ。せっかくだからそこ使って、お友達とゆっくりしていってね」
 洋子姉ちゃんが指差す先、ショーケースの横を通って店内に少し入ったところには、小さなテーブルと椅子が数脚置かれています。昔はよく、そこでサービスしてもらったつくねを食べて帰りました。
「やっぱり彩さんはこのお店のこと、知っていたんだね」
「久しぶりに来て気まずいのか? お前って意外と気にしいだな」
「いやあ、まあ、はい。そういうことにしておいてください。すみません……」
 小さなテーブルを囲い、身を寄せ合うように腰掛ける私たち。改めて見回すと、店内もあの頃から何も変わっていません。いつも不機嫌そうにしていた店主も、お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない、炭火のススがあちこちに積もった様子も、不気味なくらいに記憶と一致しています。

「はい、お待たせ。いっぱい食べてね」
 すぐに洋子お姉ちゃんが運んできてくれたお皿には、注文した数よりはるかにたくさんの焼き鳥が積まれていました。
「洋子お姉ちゃん、こんなに悪いよ」
「いいの。それにこれはお父さんから。あの人も会えて嬉しいってさ、わかりにくいけど」
 お店の奥で黙々と串を焼き続けている店主はこちらをちらりと見ると、すぐにまた視線を手元に落としてしまいます。あの頃も、私はほとんど店主の声を聞いたことがありませんでした。
「僕たちにまで悪いねえ」
「せっかくだし食おうぜ。おねえさん、おっさん、ありがとうな!」
 再びこうして思い出の味を口にできるなんて、洋子お姉ちゃんと店主と再会できるなんて、夢にも思っていませんでした。それなのに、私は素直に喜ぶことができません。そんな気も知らない香山先輩が嬉々としてお皿に手を伸ばそうとすると、別のお客さんが店頭に立つのが目に入りました。



「どうしてこんな時に来るのよ、帰ってよ!」
 最初は青木くんが遅れて来たのかと思ったら、ぜんぜん違う人でした。 
 フルフェイスのヘルメットを被り、首から下はつなぎのライダースーツ姿。まるで本格的なレーサーのような出で立ちのその人に、洋子おねえさんは必死の形相で声を荒げます。さっきまでの眩しい笑顔は消え去っていました。
「洋子、はやく下がれ! 彩ちゃんたちもテーブルの下で身をかがめなさい!」
 その日初めて聞いた店主の声。ただ事ではない二人の様子に、私たちは言う通りにテーブルの下に入って身を屈めます。
「このクソ暑い日にあの服装、ぜったいにおかしい奴だぞ」
「なんだか厄介ごとに巻き込まれてしまったかなあ」
「先輩、たぶんですけど、かなりまずい状況だと思います……」

 テーブルの下から顔を覗かせると、ヘルメットに手を当て、ゆっくりとシールドを上げるライダースーツ姿のお客さんの様子が見えます。するとその中から飛び出したのは炎。
 それはヘルメットから店内の奥まで勢いよく、扇状に広がるようにして放たれ、一瞬で洋子お姉ちゃんと店主を吞み込んでしまいます。そのまま私たちの頭上で生き物のようにうねりを打ちながら広がり、みるみる燃え盛ってしまう店内。あっという間に私たちは身動きが取れなくなってしまいました。
 もはやお客さんではなく、邪悪な放火魔となったその男。店頭に立ち塞がったまま、放たれる炎の勢いが弱まることはありません。

「洋子お姉ちゃん!」
「これはまずい。熱くてかなわん」
「ひええええええ」
 悲鳴を上げる香山先輩は私に抱き着き、そのまま三人で身を寄せ合う様にしてテーブルの下で小さくなっていると、炎の中から飛び出してきたのは身体が大きくなった洋子お姉ちゃん。身体がまるで大きな手羽先串のように変形して、広くなった横幅で私たちを炎から守るように覆ってくれます。
「大丈夫だから、じっとしていて」
 炎やボロボロと焼け落ちてくる天井から守られていると、その向こうには全身が火だるまになった店主の姿が見えます。
「この野郎、いい加減にしろってんだ。ふんっ!」
 炎に包まれながらも怯まず、ぐっと力を込めた右手を手元の焼き鳥にかざす店主。すると焼き鳥がふわりと浮かび、串の先を放火魔に向けます。同時にショーケースに積まれていたのも、私たちのためにテーブルにおかれていたのも、お店にある全ての焼き鳥が一斉に宙に浮いてしまいました。
「いけっ!」
 店主のその一言で、矢のように放火魔へ飛んで行く焼き鳥たち。ぶすりぶすりと、ライダースーツの上から次々に刺さっていきます。
「これでどうだ!」
 店主による焼き鳥たちの猛攻によって、ヘルメットの下、身体の正面は隙間もないほどに刺さった大量の串で覆われてしまう放火魔。その勢いに耐えられなくなったのでしょうか。その場にしゃがみ込んでしまい、放たれる炎の勢いが弱まっていきます。
「お父さん、この量なら行けそうだよ!」
「おい彩、この店って昔からこんな妖怪屋敷じみてんのか! ふざけんな!」
「そんなわけないじゃないですか!」
「見ている分には楽しいが、しかし熱いねえ」

 残念ながら店主と洋子お姉ちゃんの手ごたえとは裏腹に、動きを止められたのはほんの僅かのことでした。放火魔がバイクのアクセルを回したような低いうなり声をあげて立ち上がると、全身に刺さっていた焼き鳥に一瞬で火が付き、あっという間に灰になってしまいます。そして今度は全身に空いてしまった穴という穴から、店内に向かってさらに激しく炎を噴きだしました。
「くそっ、これだけ準備してもダメなのか」
「あなたたち、動いちゃだめ! このままじっとしていて!」

 勢いも量も増した炎に店頭のショーケースはやがて焼け崩れ、店主の身体もさらに激しく燃え上がってしまいます。
「ごめんね、彩ちゃん。いつものことだから大丈夫」
 洋子お姉ちゃんのおかげで私たちは燃えていませんが、それも時間の問題でしょう。彼女の身体はみるみる焼け焦げてしまい、炭火焼きの香ばしい匂いがします。
「洋子お姉ちゃん、これは大丈夫じゃないって!」
「どうせ死ぬなら焼き鳥を一本は食べたかったなあ」
「ふざけんな! 嫌だ嫌だ、焼死は嫌だ!」

 おかしいと思ったのに。きっと良くないことが起こるのだろうと心のどこかで分かっていたのに。お二人のことを引き留めず、先日の保健室での一件に続いてまた迷惑をかけてしまいました。本当に私はどうしようもない奴です。  
 周囲を覆う炎のように、胸の内で暴れる後悔の渦。その中で、私は青木くんの顔を見ました。頭に浮かんだとか、幻覚を見たとか、そういうことではありません。洋子お姉ちゃんの身体の向こう、炎を放つ放火魔の背後には、お店の前で目を見開いて固まる青木くんの姿があったのです。



「青木くん、水!」
「水? 水! 了解です!」
 私の言葉足らずな大声で我に返った青木くん。首から下げていたいつもの大きな水筒の蓋を開けて、中身を放火魔に向かって背後から投げ放ちます。いくら大きいとは言っても所詮は水筒のはずなのに、大き目の飲み口から放たれた水は、まるで学校のプールでもひっくり返したような量と勢いの激流となって、放火魔とお店に襲い掛かります。

「彩っ、掴まれ!」
 あまりの水量に店内はあっという間に鎮火されるも、今度は青木くんが放った激流の勢いが止まらず、お店もろとも水に飲み込まれそうになる私たち。流れに抗ってなんとか右手で香山先輩の手を掴んでから、今度は左手で洋子お姉ちゃんの手を掴もうとしますが、その手は触れた瞬間に灰となって崩れてしまいます。
「洋子お姉ちゃんっ!」
 大きくなった身体は既にこんがりと焼かれ、限界が来ていました。そのまま全身がボロボロと崩れてしまい、灰となって水に溶けてしまう洋子お姉ちゃん。上昇する水位はその最期を悲しむ間も与えてくれず、すぐに私の顔にまで達します。
 やがて渦潮のようになる水の中で、空いてしまった左手は持丸先輩が掴んでくれました。そのまま洗濯機で洗われる衣類のように私たちは水の中をぐるぐると回りますが、不思議と息苦しさは感じません。回っている最中、洋子お姉ちゃんと同じように灰となって水に溶けていく店主と、水の中でもがき苦しむ放火魔の姿が見えましたが、それもほんの一瞬のこと。さらに激しさを増す渦に、耐えられなくなった私は両手を離してしまいます。

 そのまま成す術も無く渦の中心に向かって吸い込まれると、次第に穏やかになる水の流れ。やがて暗い穏やかな水の中で一人ぼっちになってしまった私は深い深い海の中にいるようで、暗い周囲に先輩方の姿は見えません。ふと見上げると、はるか頭上で「ほり江」の暖簾や提灯、焼き鳥台といったお店の備品がぐるぐると回っているのが見えます。きっとあれが先ほどまで私が揉まれていた渦。そこからは抜け出せたものの、なんとか浮上しようと手足を動かしても身体は沈んでいくばかりで、頭上で回る備品たちはどんどん遠ざかってしまいます。 
 もはやお店ではない、海の中を私はゆっくりと沈んでいきます。

 どれぐらい沈んでいたでしょう。しばらくすると足元に柔らかな感触があって、辺りで立ち上がったのは砂埃。視界はほとんどありませんが、頭上から微かに届く光で足元が白い砂で覆われているのがわかります。ここはきっと水の底。とても静かで、先ほどまでの騒動が嘘のよう。やっぱり息苦しさは無いので、私は試しに歩いてみることにしました。
 目を凝らして歩いていると、辺りでは焼き鳥の網や、ショーケースの残骸、それに洋子お姉ちゃんが頭に巻いていたバンダナが砂に埋もれているのを見つけました。持丸先輩と香山先輩も渦を抜けて、ここに沈んでいるのでしょうか。
 海底を彷徨う深海魚になった気分で私はお二人を探そうとしますが、すぐに砂の中で赤い輪っかが落ちているのを見つけます。身を屈めて拾い上げると、それはペットの首輪でしょうか。留め具のところに小さな鈴と丸型のプレートが付いていて、そこには「ビト」という名前と彼の生年月日、それから私の家の電話番号が刻印されています。

『一緒にいてあげられなくてごめんね』

 自然と出てしまった独り言は音にならず、泡となって水に消えてしまいます。ふと顔を上げると、目の前に現れたのは壁のように大きな板。海底にそびえ立つそれはよく見ればシャッターで、大きく「ほり江」と書かれています。
 手を伸ばして触れてみると、私はかすかに、それでいてはっきりと洋子お姉ちゃんの声を聞きました。
「彩ちゃん、それとお友達のみんな、ありがとうね。おかげでやっとあいつを倒せたよ。また遊びに来てね」

 声の元を探して周囲を見回していると、間もなくひとりでにゆっくりと上がり始めるシャッター。上がっていくにつれ、クジラが口を開いたように辺りの水を呑み込んでしまいます。どうやらその向こうには別の空間が広がっている様子。徐々にその勢いは増していき、やがて立っていられなくなった私は水と一緒に開き切ったシャッターの向こう側へと飲み込まれてしまいました。



 私は「ほり江」に行かなくなったのではなく、行けなくなってしまったのです。だって、そこは無くなってしまったのだから。
 国道を暴走していたバイクが操作を誤り、営業中の「ほり江」に突っ込んだのは八年前のこと。あまりの速度と衝撃にバイクはすぐ炎上、爆発してしまい、店主もライダーも洋子お姉ちゃんも、一瞬でみんな死んでしまいました。
 生まれて初めての身近な「死」を、洋子お姉ちゃんにも店主にも二度と会えないという現実を、当時の私は受け止めることができず、受け止められないままに、「ほり江」の思い出はいつしか記憶の海の奥底に沈んでしまっていました。



 海底のシャッターに吸い込まれた私は、焼き鳥屋さんの外に投げ出されてしまいました。私だけじゃなく、持丸先輩と香山先輩も一緒に、びしょ濡れで国道沿いの歩道に転がっています。その様子は、まるで三匹の打ち上げられた魚。脇で立っている青木くんも濡れてしまっています。
「死ぬかと思った、死ぬかと思った」
「死ぬにしても、焼死も水死も御免だね。よくわかったよ」
 突然降って湧いたように現れたびしょびしょの私たちを、近くのコンビニの店員さんがガラスの向こうから不審そうに眺めているのが見えますが、無理もありません。そこはかつて「ほり江」があった場所。跡地に全国チェーンのコンビニができたのは、もう何年も前のことです。

青木くんが手を差し出してくれるので、私は掴んで立ち上がります。
「青木くん、グッジョブ」
「あれで正解でしたか?」
「うん。大正解」
「よかった、危ない所でしたね。で、彩先輩、それはなんです?」
 青木くんの視線は私のもう片方の手に向けられていました。そちらの手には先ほど海底で拾った赤い首輪があったはずですが、見ればいつの間にか紙袋を握りしめています。すぐに開いてみると、中にはたくさんの焼き鳥。つくねも入っています。
「お土産みたい。食べちゃおっか」

 私たち四人は濡れたまま、コンビニの前にしゃがみ込んで焼き鳥を食べることにしました。今じゃなくてもいいのに、何故かそうしなければならないような気がして、みんな黙々と串を口に運びます。コンビニの店員さんや前を横切っていく歩行者の皆さまの訝しむような目は、もはや気になりません。

 ちなみに焼き鳥は濡れてしまっていて、まったく美味しくありませんでした。

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