不死のテクノロジー
今日も山、凍てつく寒さに、現場の頂上も近い、白い息吐いて、濡れちまった地下足袋で地団駄踏んではぶん回す草刈りの竿。
ここでいつかのだれかも同じように白い息吐いて木を植えたか草刈りしたか伐倒したか。
たったひとり透明な冷たい大気にさらされているけれど場所は同じだけど時間が違うだけの別のたったひとりの誰かの息吹を感じる。
大地にもそれはたくさんスタンプされていて遥か昔に地層に混ぜ込まれた足跡も、くしゃみで飛ばした唾も、今では植物の細胞に混ざって堂々と枝葉を伸ばしてる。
テクノロジーの特異点においては人は不死なる存在になるかもしれぬと聞く。聞くけどよくよく聞いてもよくわからない、データ化されネットワークに彷徨う、僕。それの一体どこに生の名残があって存命してるだなんて言えるんだろう。
僕の言葉、言いそうなこと、やりそうなこと、行動、テクノロジーが進めば、匂いに声色、そして立体としてそこに立っている感じ、ご丁寧に僕はビットレートの波にのってスマホなのかVRゴーグルの向こうなのかに引っ越しさせられる、進めば進むほど細分化され再現性は際限もなく、僕の上に僕らしさを重ねることで僕のリアリティは深まるのだろうか。
否!まったくの糞理論だと思う、こういう発想をする人間はそもそも生きていないに違いない、生きていないからこそ不死なものへと転化しやすいのだ、死から不死へ、不在から無へ。まったく。
いいか人の不死のテクノロジーなんてものはすでに存在してるんだよ、当たり前のように、俺たちが歴史上今までそんなこと考えなかったと思うか?
アホう、人類の最大の敵はいつだって死なんだよ、そして俺たちは死への恐怖を動機にこんなにも世界で暴れ回ったじゃないか、もちろん不死は実現している。
4月19日
僕はふと思い立って本棚の前にたち、本棚の中でもっとも重たい写真集を取り出してあぐらをかいだその両足の上にその本をひろげ、色彩と存在の叫びのような写真、文字、絵に食い入った。なぜ思い立ったのかは分からない、ふと思い出すように取り出したんだ。
「ピータービアード」存在そのものがアーティスト、日記魔のメモ魔の写真魔、あらゆる鮮烈な現実の断片をスクラップし折りたたみ、火事にまかれても、なおその燃え残ったダイアリーを写真に撮りその写真に絵を付し、文字を加えさらにスクラップしては我が道を突き進む記憶の自動折り畳み式戦車。
しかし、その日の夕刻、僕はその日にビアードが死んだことを知って驚いた、なんてことだ。
9月2日
その日も僕は本を紐解きページをめくっていた、「アナーキスト人類学による断章」自分の思う仕事への思いと、なぜ人はしなきゃいけないことをしないといけないだろう、なんて誰もが当たり前にもつであろう疑問を深刻に常に脳裏に持ち歩く俺にとって、とても大切なことが書かれている気がした。
昼過ぎに次に手に取ったのは同じ著者の「ブルシットジョブーくそどうでもいい仕事の理論」これもまた現代の仕事全体、いや、自分の環境に対する仕事ですら虚しい人間による手前勝手な自己満足感を拭い去れないように感じていた僕にとっての違和感の原因を教えてくれる本だと感じ、僕は著者に興味を深くもちはじめた。
その著者の名は「デイヴィッド・グレーヴァー」しかし、その日の晩僕は彼が死んだというネットニュースを、スマホ画面を縦にしゃっとなでて移り変わる画面の景色の一部の文字列として知って衝撃をうけた。
9月18日
僕は総合格闘家山本キッドに深い思い入れを持っていて何度か日記にも書いたりしていた、彼のしなやかな獣のような肉体、肉体そのものの感性によって相手を仕留めにいく彼の試合は神に捧げられるサクリファイスのようにおそろしいまでに美しかった。
彼はこの日に短い生涯を閉じた。
が、この日に俺の真ん中の息子は誕生した。
日付と著名人の死を上のように思い出してみたが、何が言いたいのかというと。彼らの死は、僕の中で、彼らの不死の始まりにすぎなかったということだ。
深く興味をもった著名人が僕が興味を持ったその日に死ぬ。そして僕は彼らが残した書籍のページをひらく。ある種の終わりはあったのかもしれないが、そこで僕の中で始まるその著者との対話のようなもの。
不死とはなにか?それは画像か動画か、自動生成されたその人っぽさか、その映像がスマホとかタブレットに現れてコミュニケーションできることか?そんなものは幼稚だ。
僕たちが他者と向き合う時、その他者と僕との間には光の遅延がある、光が届くには時間がかかるから、その人の姿を目で認めることも、音はもっと遅れるから、声を聞くことも、つねに遅れて入ってくる、俺たちの間には遅延がある、そして僕がその人の姿を目に受け取る時にはその場の光の加減や色彩の加味がありメンタルのバイアスも受け取る、声にもさまざまなノイズが混じり合う。
そこでその人を認めるために僕らは理解、解釈をしようとする。こんな幼稚なことをわざわざ書きたくもないが、他者とは無償で提供されるサービスではないし消費されるのを持ち構える商品でも情報でもない。ただただ受動的に僕のなかに入ってきて僕の仕訳伝票の中にすっぽり仕分けられて収まってくれる他者なんてものは存在しない。
人は人を理解するということ、いや、理解などありえないが無理解からほんの少し部分的な理解を得ようとする時には必ず能動的な姿勢が必要で、能動的にコミットする必要がある、こちらから知ろうと、手を伸ばす必要が。
長く語りすぎたが、つまり生とはなにか、それへの定義によって不死の定義は大きく移ろう。
他者がただ存在する、解釈や認知の網目に絡まれることなくポツネンと存在することが生なのだとしたら、それっぽいものを情報化して吸い出してネットに吐き出せばいとも簡単に不死は成就する。
しかし生が、生きた肉体による魂の発現、全生命力を賭けた表現なのだとしたら、それはヴァーチャルに再現された人形などではなく、文字でありアートであり、戦いの痕跡であるべきだ。
それは特別なことではなく、人類が文明を築き上げていたこの土台はこれまで生きてきた人類の不死によって成り立っているのではないか。むしろ、不死ではない人類なんていないのではないか、生きた痕跡、作り主を失った構造物やルールや習慣。
シテを取り替えつつも不死の象徴たる能における面。
演者を替えつつ延命していくハムレット。
むしろリアルな生を飲み込んでもなお存命を叶えていく不死の恐ろしい力。
書物などは不死のテクノロジー以外の何者でもない、そして書物とVRゴーグルで覗き見る死者の生きていた姿、どちらが死してなお生き生きとしているだろうか、書物を開くたび贅沢に吸い込める溢れんばかりの著者の生のエネルギーを読書家は知っているはずだ。
記憶に刻まれた戦いの記憶、リングを跳ぶキッドの跳躍が息子の誕生日には埋め込まれている。
山で座る切り株もまた植えた人を置いてそこに残っている、その人がここでしょんべんを、大便を、それらを巻き込んで育つ木々の成長を、人はあらゆる不死にまかれている、それは俺が山で感じることだ。
逆に言えば人間は死者と対話する能力を持つということだ、ビアードが死に、彼のスクラップされた日々はまさに生の息吹を放つ、グレーヴァーの生気に満ちた思想は、彼の死などものともしない勢いで、脈打ち今も綴じられた書物のページの間に爆弾として息を潜めている。
そうだ、フーコーは私は爆弾職人だと言った、いつか起爆することを想定し本に挟みこんだと、それは時間をかっとび時代を無視し、しかる時にこそ見事な花火を上げて爆破するだろう、もはやフーコーの肉体などなんの意味もない、死など無意味、不死だけが存在する。
これら死者たちのあまりに生々しい叫びを前にして生きることとは何かと再び問う、天皇家は代々神武天皇の霊を衣服として羽織ることで憑依させる、それは不死なる神武天皇の受肉された人に過ぎない。
万葉集や童歌、いまもこだまし続けることの止まない不死者たちのうた。
そんな風にして僕は不死者たちの声や書物やアートや痕跡の数々にふれ、コミットする能力を磨く、そして今同時に生きているこの世の生者たちにも無理解からの一部理解へのコミットをかしこみながらも分け入っていくことを学ぶ必要があるのではないだろうか。