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人新世の「資本論」を読んで

長雨のせいで雨読が捗るぜ。

エコ、ロハス、SDG's、様々な環境と文明の共存は今までも提唱されてはきた。
しかしそれらは帝国主義的資本主義の延命装置のようなものかもしれない、生活を変える必要もないし、そのまま働き、そのまま消費せよ、と新しいやり方で背中を押されているだけかもしれない。

果たして既存の資本社会に新たな要素をつけたすだけで、人間が環境、生態系に影響を与え続け、変化させてしまったこの地球の新たな歴史「人新世」を生き延びることができるのだろうか。

新たな技術の加速はある、しかし全てにコストがかかる、リチウムイオン、レアメタル、再エネ、化石燃料、二酸化炭素。そしてまたそれら新技術の体制をカバーしていくような技術の開発、宇宙開発、電気自動車、NET(二酸化炭素除去技術)、加速主義やグリーンニューディールは止まることを知らない。

そしてグローバルサウスの問題、先進国は常に問題を外部化する、見えないところで侵略は行われる、しかし、ブラジル、中国が先進化する中でもはや世界に外部はない。

止まることのない、閉鎖技術による知識、権利、富の独占。原発、果てはジオエンジニアリングというような、新しい資本化の波。資本は新たなターゲット市場を見つけたようだ、気候危機の波に乗る、炎上商法。

これらを網羅して著者は疑問を付す。
経済成長を止めることなくして、人類に先はあるのかと。
やはり問題は成長なくして存立し得ない資本主義そのものにあるのではないかと。

僕は色々な山で仕事をしてきた、事業主体も色々なところで作業した。
そして思う、山を育てたり、木を植えたりするこの僕の造林の仕事ですら、何か地球環境の役に立っているのだろうか。と。

そして内心僕は思うのだ、役になんて立っていないと。
これは数えきれないブルシットジョブの一つに過ぎないと。

杉の苗を植え、その横に立派にしげる様々な雑木を刈り払う、優生思想。クワでミミズを殺してしまうこともある、草刈りで無数の鳥の巣も破壊する。そこまでした上で夏に植えた杉苗が枯れたりする。

確かに10年もすれば、そこに針葉樹林の生態系ができる、それに貢献したとはいえるかもしれない。じゃあそれを僕が作るのにかかったコストを考えてみたい。

出稼ぎで3時間弱かけて1人車でやってくる、ガソリン。出稼ぎ先で1人家を一軒借りて暮らす光熱。働けば飯もよく食う、チェーンソー、草刈り、何をやるにしてもエネルギーを大量に使う。重機を使わないから、造林なんてまだかわいいもんだろうけども、苗業者が苗を作るコスト、それを運ぶコスト、自分の仕事にかかるコストと、それら消費の上でなる、林の生産。

そのことに想いを馳せる。生産とはいったいなんなのか。仕事とはなんなのか。
世間では、AIに仕事を取られると焦っているようだ、笑ってしまいそうになる。
奴隷に仕事をやらせておいて、奴隷に仕事を取られると焦るのか。

家でろくに食わずプレステしてるだけのニートの方が、エコじゃないのか。
何もしないこと、はエコだ。これはもっと評価されていいはずだ。
よく働く人間はよく消費する人間でもあることが多い。
それはもっと責められるべきではないか。

MFマテリアルフットプリント
消費される天然資源量

CFカーボンフットプリント
排出される二酸化炭素量
このような観点を直接個人やその人の生産のコストに持ち込むべきだと思う。
働き者はよく稼ぎ、よく食い、よく買い物をし、仕事によっては環境負荷も働くほどに高まるだろう。個人にもMF、CFの観点を持ち込み、再検討すべきではないか。

人々を休まず働かせ、より多くの価値を生み出し、新たな需要、新たな価値の創出、値段のついてないものに値段をつけることを資本主義は推し進め続けてきた。それはつまり、新たな消費を生み出し続けるシステムでもある。

資本主義とは、僕の理解でまとめていえば。

毎年近所の山で勝手に山菜をとっていたけど、その山に所有者ができてしまい山菜が取れなくなった。所有者は山菜に値段をつけて道の駅におろす、毎年無料で山菜を採っていた人は、どこかで貨幣を得れる仕事を探してきて働き、金銭を得てやっと道の駅に山菜を買いに行けるようになる。

これはハッピーだろうか。つまり僕らは壮大な遠回りのシステムを構築し、同時に無数の価値を生み出してきた、広告やブランディングやポルノイメージが人々のドーパミンを刺激し、手元にない夢や幻想を与え続けてきた。需要があって供給があるのではなく、ブランディングによる供給を行うことで需要を生み出すという、ある意味、消費者そのものを生産することがほとんどの産業の主たる目的になってしまっているのではないか、これがブルシットジョブの本質なような気がする。

しないといけない仕事があって働くのではない、働かないといけないから仕事が必要なのだ。僕は学生の頃から学校に行きたくなかった、社会人になっても働きたくなかった、そこに切実さを感じられなかったからだ、つまりなぜ生きるのに学校に行ったり、金が必要なのかがわからなかったのだ。事業主になっても未だにわからないし、そういうことを一緒に考えれる仲間が欲しいと思う。

本書では、これら資本主義による加速主義を丁寧かつラディカルに、その資本主義の産みの親でもある、マルクスへの回帰、読み込み、読み返し、そして新資料による新たなマルクス解釈によって乗り越えようとする。

新しい社会の構想、そうだ。この『構想』するということが本書のへそなんじゃないか。
本書の中で紹介される話で、僕が心に残ったのが、アメリカのマルクス主義者。ハリー・ブレイヴァマンによる職人の話、資本によって職人は解体される。従来、例えばイス職人は1人で構想し、1人で実行することでイスを作っていたとする。資本はそれを細分化してしまう、細かな過程に作業を分け、<分業化>してしまう。

それによって、それぞれが単純作業をするだけで同質なイスが完成してしまう、大量につくることも可能になる。
しかし同時に、このことによって、分業化された労働者に『構想』する能力は失われてしまうだろう。もしかしたら、イスを作る分業化された作業員の1人は自分が何を作っているかもわからないかもしれない。

実際、今の自動車工やパソコンを作る人が必ずしも車やパソコンの構造やシステムを把握できてはいないだろうし、その必要もないだろう、官僚も政治家もそのようにして、国全体の運営に対して無知である可能性ももちろんあるだろう。

資本化による効率化は分業を推し進め、同時に『構想』する力を人々から削ぎ落とす、さらに僕が付け加えるならそこには、責任の分散ということもあり得る。全体を把握していない、自分がイスを作っていることも知らない人が、イスに責任を保ちようがない。それは僕の責任じゃない、みんながそう言える分業社会。

それと職人の話でもう一つ思うのは、もしこの元の1人のイス職人が死んでしまっても、このイスは分業によって作り続けることができるだろう。そうなってしまったら、もはやこのイスの全体の構想を持つ人間は誰もいなくなってしまうことになる。

実際、今この世の中はこういうことがたくさんあるように思う。元に誰かが構想した世界のパーツになってしまい、その元の誰かが消え、パーツだけが社会を成り立たせている。
人間は死ぬと消えるが、ルールや文字やシステムは腐らない、そのシステムで人は代替え可能なパーツに成り下がっている。

そのような要素からも、責任主体であるような「構想」する人は、どんどんいなくなってしまうのではないか。しかも、例えば、分業化されたイス工場で、イスの右足を作る人は、ずっとイスの右足とばかり関係を持つことになる。一生続けるかもしれない、そしてその人は対価として金を得る。

イスの右足を作ることで、得た金で、その金で買えるものは全て買えるという世界に彼、彼女は生きることになる。食い物も、住むところも、服も、家族を養うことも、イスの右足を作ることで彼、彼女は可能にする。これは素晴らしいことなのだろうか、僕はそういう妄想をしていつも考え込んでしまう。

さらには、この人がこの社会では投票をするわけだ。人生のほとんどの時間を、イスの右足を作ることと向き合ってきた人が誰かを選んで投票する。この人が果たして、国や社会に対して何か発想を得ることができるのだろうか、僕には疑問だ。
今、民主主義と呼ばれるこの国で、全体の「構想」をまったく持たず、持つ勉強をする時間もない人がほとんどの中、投票だけは行われ、民主主義と呼ばれている。

僕は、人を雇うとき、その辺のことをいつも考える。分業は嫌いなんだ。
能力は低くても、作業の全体を把握して自分の能力を逆算して、やれることをやってもらえてたらそれでいい。雇う人は、いずれ独立を目指してほしいし、最初からそのつもりで学んでほしいと思う。本書に重ねていうならば、先のことであれ「構想」を持つことができるようなプロセスを作りたいと思う。

分業から始まり、少しずつ全体の把握に至るような成長を、その成長を介して人は、自分に与えられた仕事の中から、社会や国全体のことも学べるのではないかと僕は今思っている。今、1人で仕事をする中で、やはりバイトを雇っているのとは違う感覚を抱く、仕事と一対一で向き合い、自分がした分だけしか確実に進まない、現場の正直さに、日々学ばされるようだ。

著者の構想する社会の実践に欠かせないものがあるとすればそれは、地球人的な責任感と、主体性だと思う。

グローバルサウスとして外部化してしまう構造もあってなかなか自己の社会を成り立たせている個別の国に生産の面で関係している諸外国との全体像を掴むことは、難しいが、ほとんどの国がほとんどの国と関係しているのは確かだろう、みんなでみんなを生きていると言ってもいいと思う、恥ずかしいことではなく、実際にそうなんだから。

もはや人新世にあって、日本人などと言っている場合ではない、無数の国から搾取し、二酸化炭素を排出し、気候変動に加担している以上(他の先進国同様)、地球問題の当事者の1人であることは変わらない、つまり僕だって地球人に違いない。

本書を、僕は1人山で読んだ、それは僕にひろい世界を感じさせてくれた、僕の日々の労働への違和感、金を稼ぎ続けないといけないことへの違和感、税金への違和感、この社会への違和感、この作業への違和感、思えばそういう違和感の全てが資本主義への違和感だったんだ。本書はこの世界を見渡し、新たな社会を構想する術を僕にも与えてくれたように思う。今後の生き方の糧になる本だった。



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