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2020/02/01(Sat)〜2020/02/05(Wed) ジャンルの端、真夜中のラジオ、厚底、ひかるにくまん、ここは魔窟

2020/02/01(Sat)

 お昼から共有結晶編集部の新年会。砂漠谷さんがいつものようにごはんを作ってくれた。
 一、二ヶ月に一度は集まって昼から夜までおしゃべりしているのに、話は尽きず、あとからあとから話したくなったり、聞きたくなったりする。途中、ちょっと抜けて通販処理をしたり、気になっていた事務処理をしたりというのもいつものことで(そしてそれが何かを途切れさせることなく行われる)ふしぎな場だな、と思う。

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 BL短歌の話もほんの少しした。個人的な気持ちとしてはBL漫画にも雑誌ごとのカラーがあるように、BL短歌もいろんなカラーがでてくる時期になったのかも(なっていったらいいのかも)と思う。BL短歌は短歌のなかでも、BLのなかでもまだまだ規模が大きくないから、気持ちのうえでまだうまく細分化ができていないし、手放しきれていないと感じる。

 BL短歌というジャンルの端が見えないくらい、もっと遠くになるといい。

2020/02/02(Sun)

 午前は掃除、午後は陶芸。
 砂漠谷さんが新しく買ったどんぶりがたいへんおしゃれですてきだったので、マネしてつくりはじめてみた。これに饕餮文を彫るんだ!

 ハン・ガン氏の「そっと静かに」を読みはじめる。
 数日前にフォロイーさんがNCTのドヨンくん?の誕生日のお祝いに、ハン・ガン氏の本の一節をあげており、その一節があまりに美しかったので。
 ささやかな思い出や歌にまつわる出来事が訥々と書かれ、真夜中のラジオを聞いているみたい。

2020/02/03(Mon)

 わたしの15センチの厚底靴を夜中にこっそり履いてみたという祖母の話をふと思い出した。そのとき齢70は過ぎていたのではないだろうか。祖母はいくつになっても新しいもの、めずらしいものが好きで、なんについても「わりあいにいいのよね」とにこにこしていた。

2020/02/04(Tue)

 ひかるにくまん。

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 ひとや制度に助けを求める練習をするのは、思いのほか生きていくうえで重要なことなのではないか、と思うようなことがあった。他者/自己問わず、人生における選択の良し悪しを他人と比べたり、ジャッジしている場合ではなく、危機に陥ったときに「たすけてほしい」と言えたほうがいいのでは(そっちのほうが実際に助けてもらえることも多いのではないか)。
 なんてことをつらつらと語りながら、でもそれをうまくできなかったらどうなるんだろう、ひやりとする。どれだけのひとが助けてと言えて、どれだけのひとが実際に助けてもらえるんだろう。
 頼りたいというメッセージを発したひとを責めないぞ、と思う。
 同時にいっしょに沈んでしまわないように、わたしもまたひとを頼ろう、と思う。ひとりじゃできなくても、複数人でならできることもあるはずだ。
 いまなんとか働けていることも、生活できていることも、べつにあたりまえではない。

2020/02/05(Wed)

 炎上という現象が目の前をものすごいスピードで通り過ぎていく。
 すっかり見慣れてしまった光景だけれど、炎上そのものよりもその後、腰を据えてその問題に関われるのか、あるいは、少しでも知ろうと努力できるのか、に尽きるのではないか。無知を愚かだと笑うことも、そんな事実はなかった、あるいは、そう感じるおまえがおかしい、と否定することも炎上仕草のようになってしまったと感じる。次になにかが炎上すればいま問題としてあらわれたこともすぐ過去になってしまう。それでいいんだろうか。
 発言、表現、そういったものの多くは文脈のなかにあって、文脈を知らずに、あるいは説明をせずに/聞かずに、話をするなんてできるんだろうか。ツイッターでは厳密にテキストを読んでいるようでいて、実際には発言した相手の文脈を無視した、読む側に都合の良い読み方、受け取り方が闊歩していて、すっかり魔窟のよう。
 知る、学ぶ機会はいくらだってある、あると思いたい。知らなかったことに、あるいは間違えていることに気づいたら学べばいいだけで…。「若い世代が」というのもいまいちぴんとこなくて、若い世代の話ではなくて、自分は(あるいは自分たちの世代は)きちんと学んできたのか? みたいなことを思う。

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