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2020/01/21(Tue) ひとの性別を笑うな

 「murmur」という名の日記を再開する。

 15年くらい前にお世話になっていた二次創作サイトの多くに「murmur」という日記があった。好きなキャラクターやカップリングのことはもちろん、なんとなくの今の気分、そういったものが共有される場所で、読むのが好きだった。演出されすぎているわけでもあけっぴろげでもない、絶妙な距離感だったなあと感じる。いまツイッターで触れるテキストはダイレクトすぎて、時折苦しくなるのだけど、自分自身もそういったダイレクトすぎる言葉を発しているのだろうと思うとき、すこし距離のある言葉で話したいと思った。

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「生物学的には女です」
 こういう発言をすると、だいたい「痛い」と思われていた時代があって(いまはもう少し受容のありかたが違う気がするのだけど)、いま聞いても、わたし個人としてはそう言わざるをえない気持ちについて、否定することも笑うこともできない。これは外側から、自分の意志とは関係なく全自動的に「女」として扱われることへの違和感の表明のひとつだったと感じる。女であることを認められない痛い女、というみなされ方にふれるたびにつらい気持ちになったし、実際それに傷ついてきた部分もある。

 女性の肉体をもって生まれてきたと認めることと、社会のなかで女性として生きることがどうしても重ならず、だからといって「Xジェンダーです」と言うには、「Xジェンダー」がどういうものなのかがわからず(言葉で意味を追っても体感としてあっているのかがわからない)、つまり自分が「そうである」と名乗っていいのかもわからず、宙に浮いてしまう状態。そういう気分をよく表した言葉だったと思う。

 「性別なんて、なんだっていい」と言えたらいいのだけど、事あるごとに躓いて、つまり「わたしは女であるかどうか」みたいなところでいつも立ち止まってきた。「女性を生きているか」はわたし自身、わからないのだ。社会からみなされることと、選択して生きることには違いがある。女性であるかどうか、女性を生きているかどうかわからない、ということと、男性になりたいはイコールではないし。

 自分のなかで強固な「女性」のイメージがあるからこそ(それは概ねイメージの世界のはなしだ)、そこからどう考えてもはみでてしまう自分を受容できずにいるのだと思う。「女」を謳歌し、楽しむ、みたいなのも程遠い。かろうじて最近、「自分」みたいなくくりで、楽しめている部分もある。求められる似合わない服を着なくなったりとかそれくらいのことだけれど。

 こういうことを考えるとき、過去にあったことを振り返っては、いくらでも理由づけしようとする力が働くのだけれど、過去に過剰な意味づけをしていく行為のように思えて憚られる。起こってきたことは起こってきたこと、それだけのこととしておいておきたい。もしあれが、それが起こっていなかったなら、と考えたところで、なかったことにはならない。

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 大学の試験が迫っているので、仕事から帰ってきて勉強。1科目片付いた。今回はもう3科目しか単位とれない気がする。外国語は再履修だなと思う。

 あと、短歌を3首作る。

 よしなしごとすぎるけれど、こうしてできるだけ書きとめておきたい。以前も一度再開しようとして挫折したけれど、今度はどうかな。無理なく続けたい。

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 写真:フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)

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