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「会社の為に」という思い込みと後に訪れる虚無感への対処

グループ企業の社長の肩書を持つ人たちと話す。経営戦略を担当する部署の人たちと話す。会社の経営戦略を練るのが仕事だ。会社の未来をつくる。親会社の未来をつくる。新規事業を作る。会社の為。会社、会社、会社・・・

我が国のビジネスパーソンはなぜか盲目的に「会社の為に」と考える。素晴らしいことだ。でも、なぜ会社のためになることをしなければいけないのだろうか。


日系と外資系の概念の違い

私は、20年超のキャリアの中で、日系も、海外でのキャリアも、外資系も、公務員も、そして経営者も経験してきた。だからわかる。働くという考え方も会社に所属するという考え方も、表面上似てはいるが日系と外資系では全く別物だ。

「日本の大企業に奉公している人」と、「外資系で専門性を提供している人」は仕事に対する考え方、対価に対する考え方が全く違う。日系はまさに組織への無条件の従属が前提だ。組織に、お上に、忠誠を誓う、公務員はなおさらだ。

伝統的な日本の大企業では、個人が組織に所属し、貢献することに対し、組織はその力を使って個人を守ってくれる。その保証の一形態が給料なのだ。だから給料は組織への忠誠度に応じて上がっていくことが美徳される。つまり年功序列だ。

しかし、外資系では違う。外資系ではまず「自分」があり、給料は専門性や労働力を提供する正当な対価をもらっているという認識が先行する。だから、職種が変われば給料が変わるし、給料を上げたいと思えば自分の専門性をつけるしかない

だからこそ会社名よりも個人の能力が前面に出るのだが、自分の責任範囲は自分がEmployerと契約した範囲であり、Employeeが組織全体の存在意義に対して責任を負うことはない。


日本の大企業には本当のEmployerがいない

また、「経営者(Employer)」についても同様だ。役員と名がつくポジションは数多くあれど、日系の伝統的な大企業で真のEmployerに出会うことはマレだ。Employerとは資本家であり、意思決定者であり、そして自分のとった行動に対して自ら責任をとれる人であるべきだからだ。

だからこそ、真の意味でのEmployerとは、会社と運命共同体である。株を持っているとか、資金を入れているとか、そういうレベルではない。Employerと会社とはもっと深いレベルでつながる。

会社とはEmployerの体の臓器の一つでもあるといってよいだろう。この感覚は自ら資本家となり業を起こした人であればわかると思う。自分の体の一部だからこそリスクをとれるし成長に対しての本当の責任をとれる。資本の金額の大小は関係ない。資本家とはマインドとしてサラリーマンとはもう違う人種なのだ。

翻って、100年近く続く日本の大企業。創業家とかが経営に残っていれば良いのだが、そうではない日系企業は、もう「本当のEmployer」が不在になっているところが多い。

年功序列と実績と派閥で人事が決まり、役員になって数年も穏便に過ごせればよい。株式は持っているが退職金替わりでしかない。これらすべて、肩書はカッコいいが、実態はEmployeeである。数年でやめて転職できることが見えているのであれば、それはEmployeeだ。外資系の日本支社長などがいい例だ。


EmployerとEmployeeは人種が違う

Employerが不在になっているという事は、組織としては責任の所在が不明になっている状態だ。責任とはガバナンスとかコンプライアンスとかだけではない。「組織の理念と存在意義に対する責任」だ。

その責任の所在が不明でも日本の組織が形を保っていられるのは日本ならではの忠誠心を構成員が持ちうるからだろう。日本企業ではEmployerとEmployeeの境目は意図的にあいまいだ。しかし「そのような組織が飛躍的に成長をすることはない」と断言できる。

勘違いしない方が良いのは、経営者であるEmployerが凄いとか偉いとか、従業員としてのEmployeeが見劣りするとか、そういう事ではない。その両者は違う性質だという事だけである。

Employerは「強い思いがあり、自分がこれをやりたい、成し遂げたい」という理念と信念を強く持っている者が自然となるのである。そこにEmployeeは自分の専門性や労働力を提供してEmployerの思いの実現をサポートして対価を得ているだけだから、EmployerとEmployeeは完全に対等である。

一か所でEmployeeである者が、別の場所でEmployerとしての顔を持つという事も当然ありうるわけだ。


何のための「会社のため」なのか

社長とか、役員とか、経営企画とか、経営戦略という部署の人たちと話す。一様に会社の為を思って真剣に悩んでいる。どんなに伝統的な企業でも、Employeeだけになってしまった組織は、この「会社が何のために存続しているのか」の意義がもうよくわからない。

だから、Employeeの立場で、いくら悩んでも、「会社のため」になる答えは出てこない可能性が高い。ではなぜEmployeeが「会社のため」に悩まなければいけないのだろうか。「会社」とは、契約をして専門性と労働力を提供しているその契約相手に過ぎないのに。

未来を見てほしい。人生100年時代といわれるのは「今現在言われていること」という事だ。団塊ジュニアが100歳に達するのはあと50年後だ。細胞レベルの延命化、iPS細胞による臓器入れ替え等々、団塊ジュニアの世代では人生120年時代となっていてもおかしくない。我々の大半が100歳を超えてもピンピンしている可能性が高い。

じゃぁ、人生120年時代、たった65歳くらいで定年になったあなたを追い出しにかかる「その会社」に今あなたが忠誠を誓う理由は何なのだろう。Employerが不在になって、会社の実現しようとしている「強い思い」と存在意義が不明になっているのに会社のためを考えることができるのだろうか。

65歳定年まで居られればまだよいのだろう。「終身雇用は維持できない」とトヨタの会長が言ってるし、富士通は「45歳以上全員肩たたき」をしているのだ。あなたが忠誠を誓った「会社」はあと5年もすると間違いなくあなたを追い出しにかかる

何度も言うが、なぜその会社のために新規事業を考えなければいけないのだろう。成功したところで自分の手元に利益の何パーセントが入るわけでもないのに・・・

追い出された会社の名前を使って「元〇〇商事です」「元〇〇銀行です」と名乗るのがいかに無意味か。同じ名乗りをする人が何万人もいるし、あなた自身の専門性を示すものではないからだ。

だから、せめて「〇〇社で〇〇を成し遂げた」とか、他にはない専門性とトラックレコード(実績)を誇りたい。そうなると、単に所属しているだけの「会社名」よりももっと大きな具体的な実績を残す必要がある。


あなたが「強い思い」を持てば変わる

「会社のため」に興す新規事業というのはEmployeeの認識でいるうちにはまったくナンセンスだ。その新規事業はうまく行き始めた途端にあなたからは引きなされ、あなたとは関係のないところで育っていくのだから。

だから、「会社のため」という考え方を捨てるところから始めたい。そうではなく、「自分のため」になることを考えるのだ。自分がやりたいことを考えて、「強い思い」を持ち、周りを巻き込み、その事業の経営者(Employer)として、自ら責任を持てばよいのだ。

そしてその実行にあたってもその会社に頼る必要はない。もう、「強い思い」を亡くした会社はゾンビなのだから、会社があなたの「強い思い」を理解しないのであれば、そこから出ていくか、それとも会社のリソース乗っ取って食い尽くすしかない。

多くの大企業は戦後の焼け野原から成長してきている。その時は、本当に数人の「強い思い」を持つ人たちが先導したのだ。その成功は大きいものだったから自然と大企業には現状維持の被雇用者的サラリーマンが育った。

でも、今はそういう時代ではない。会社という組織は会社のリソースを利用しつくして次へつなぐEmployer人材の登場を待っている。それこそが次世代へと組織の遺伝子を引き継いでいく人材となるのだ。

新規事業とは、「なにか儲かりそうな事業を探す」のではなく、担当者であるあなたが実現したい「強い思い」を持つところから始まる。

そして、あなたは一人ではない。あなたの「強い思い」実現するために私がいます。

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