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オンラインミーティングとSnap Cameraが気づかせてくれた「人間の手触り」

XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。

例によってプレイドも原則リモートワークでの業務となっています。2月下旬に開始し、もう1ヶ月強経ってしまいました。

これまでとは異なる環境下で仕事を進めていかざるを得ないということで、少なからず自分たちの置かれたこの環境自体に意識を向けるということがありますね。

先週の4/1、3月を振り返る全社ミーティングが行われました。これももちろんオンラインです。そして当然、「基本フルリモートでやりきった1ヶ月、どうだった?」という話から始まるわけです。

Slackを拾うと、「無駄なコミュニケーションが本当に大事」という書き込みがちらほら。フィジカルな場がないと、その日偶然隣に座った人との雑談がなくなる。断片的に聞こえる立ち話に混ざることができなくなる。コーヒー淹れたから飲まない?というお誘いもできない(プレイドはコーヒー好きが多く、オフィスにはコーヒーマシンがある)。

直接的には仕事の話をするわけではない「無駄」なコミュニケーションが、実は相手の考えていることや温度、その人の人となりを感じる重要な手がかりだったということでしょうか。ぜんぜん「無駄」じゃなかったっていう。失って初めて気づく系のあれです。

(ではどうしてわたしたちは、この手のコミュニケーションを「無駄」と称してしまうのか。これまでも全く無駄ではないと知っていたはずなのに。それはまたどこかで考えたいと思います)

CPO、ポテトになる

この全社ミーティングで、われらがCPOがやってくれました。

自分の顔を全く写すことなく、終始このポテトでやりきっておりました。ポテト姿には特に言及することなく、淡々とPLAID/KARTEの今後の方向性を話すCPO。

さて、今回はオンラインミーティングでのポテトになったCPOから、このポテト姿を可能にする技術としてのSnap Cameraとリモートワーク環境におけるコミュニケーションについて考えてみたいと思います。

Snap Cameraは自宅環境や時間に付随する心理ハードルを下げてくれる

Snap Camera、楽しいですよね。背景やフィルタの選択に個性が出るし、使い方の局所的なブームもありそう(例えば「ポテト」も、上記の経緯があってプレイドのメンバーにとっては他の企業の方々とは異なる意味を帯びることになりました)。

Snap Cameraの概要は以下に譲るとして。

Snap Cameraのいいところは、「自宅環境や時間に付随する心理的なハードルを下げる」にあります。

フィルタを使えば、背景に映る自宅環境はおろか、自分自身さえも覆い隠すことができます。「いやいや、見る方はそんなの気にしないよ!」と言うかも知れませんが、問題はそこにはない。「俺が気にするんだよ!(切実)」。いやもちろん、「見せられても困るぜ!」というのもあるし、「見せてもいいですか?」というコミュニケーション自体、なんか下手だ。

いずれにせよ、生活感ある光景を見せたくない。働く家族のオンラインミーティングとバッティングしてしまい自宅に場所がない。今日は髪型を決めてない。などなど。見せたくないものは隠してしまえばいいのです。

副次的かもしれませんが、Snap Cameraのおかげででオンライン飲み会もやりやすくなった気がします。夜の時間帯、いつフリーになれるかは人それぞれ。子どもと一緒にお風呂に入り、寝かしつけてからであれば参加できる!という人もいます。同僚とはいえ就寝直前の姿を見られることに抵抗を感じる人もいるでしょう。その抵抗が参加の障害になってしまうのは本当にもったいない。

オンラインミーティングがここまで浸透するまでは気づけなかった、フルリモート環境下でのミーティングに伴うさまざまな障害。いまわたしたちは、日々お互いに確認しあいながら、調整しながら、その可視化と解消の過程のただなかにいるのだということを実感します。

このような過程は、オンラインミーティングという方法がわたしたちの当たり前になっていく過程とも言い換えられます。日本社会全体でいえば、リモートワーク実施の割合は13.2%という調査結果もある。予見される課題は先回りして浮き彫りにし、その対応への方策を蓄積していけるといいですね。

Snap Cameraが教えてくれる無駄なコミュニケーションの意味

さて、このSnap Cameraのフィルタでもう少し考えたいことがあるのです。それは冒頭の無駄なコミュニケーションの話。無駄なコミュニケーションとはつまり、「直接的には仕事と関連のない」コミュニケーションだったり、あるいは話す内容はどうでもよく「その人とコミュニケーションしているという事実性にこそ意味を見出す」コミュニケーションのことです。

この無駄なコミュニケーションの機能は、「その人の人となり」を掴むことに力点があります。業務の話だけではその人の人間性に触れられない。きっと、足りない。そのような直感が、わたしたちを「無駄なコミュニケーション」の必要性へと駆り立てる。

Snap Cameraのフィルタは、仕事のコミュニケーションのなかに、無駄の息吹をもたらしてくれている。ポテトになったCPOはそんなことを思わせてくれました。ビジュアルとしてのおもしろさはもちろんあるのですが、むしろ、全社会議をポテトで行くと決め、押し通したその姿勢、在り方。そこに、わたしたちはCPOの人間味、この人はどういう人なんだ、ということを感じ取ること一助となったはずです。じゃがいもなのに。いや、じゃがいもであるからこそ。

会えない環境で、人間の手触りを感じるためには

ここでおもしろいのは、画面の向こうの人を人間ならざるモノへと変化させるフィルタの存在。CPOのようにじゃがいもになったり、別のキャラクタになったり。そこまでいかなくとも、顔のパーツを誇張させるというものもあります。

人間ならざるモノのフィルタがむしろ、その人の人となりを、手触りあるものにしてくれている。Snap Cameraのフィルタをつかえば自動的に人間味が伝わるということではありません。そうではなく、コミュニケーションの在り方それ自体にむしろ「人の手触り」とでも言うべき、その豊穣な要素が含まれているのではないか、ということです。その在り方を表現する要素として、Snap Cameraが機能した。

デジタルにおいて、人と人がコミュニケーションする、そこで人の手触りを感じられるようにするにはどうすればよいのだろうか。あるいは、オフラインのコミュニケーションにおいてわたしたちが享受していた価値とはなんなのだろうか。リモートワークがもたらしたフィジカルな場の不在が、こんなことを考える契機となりました。

オフラインがオンラインへ代替されていくという話もいいのですが、そもそもわたしたち自身が享受していた体験の価値(それはオンライン/オフラインを問わず)を見つめ直していく。わたしはここを、そんな不要不急の思考の場にしていけるといいなと、考えています。

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