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やさしい唯脳論。


その昔、楳図さんは『バカの壁』で有名な(アウトデラックスにたまに登場する異常に虫好きの白髪のおじさまという方が分かりやすい?)養老孟司さんと対談本を出している。

タイトルは、やさしい『唯脳論』。すでに絶版となっているようなので紹介してみます。

冒頭で楳図さんはこう語っている。

ぼくは今、〈自分という怖さ〉に興味がある。
『ヘビ少女』を描いていた頃、〈怖いもの〉は外からやってくる、とぼくは思っていた。世の中の認識も、〈怖いもの〉は、窓を開けて入ってきたり、闇夜の道に、突然現れたりするものだったはずだ。
『神の左手、悪魔の右手』を描いていた頃は、〈怖いもの〉はよそから来るのではなく、自分の身体の中に潜んでいる、自分の身体の中から出てくる、というふうに〈怖いもの〉の定義は変わってきていた。「ゾンビ」「エイリアン」がその代表だし、「吸血鬼」ブームの再燃もそうした傾向の具体的な現象だと思う。
今はどうか。本当に〈怖いもの〉は「自分そのもの」だという気がする。「自分って何だろう?」という怖さ!である。本当に自分のことはわからない。他人のことは、冷静に、まさに客観的に理解できるが、自分自身が何をしはじめるのか、これこそ最大級の〈怖さ〉である。

そして、恐怖の対象が自分自身へと向けられた時、楳図さんは漫画を描かなくなった。

今回は我がホラーの師、楳図かずおさんについて心ゆくまで語ってみようと思う。

楳図かずおさんの作品に初めて触れたのは僕が小学生の時で、場所はソロバン教室に置いてあった雑誌だった。

そこに『まことちゃん』が載っていた。

恐怖と笑いは紙一重というけれど、当時の僕にとって、この作品とにかく怖かった。ぜんまい仕掛けのにわとりがギャーギャー(あの血しぶき風の擬音で)と鳴きわめくコマを見て、笑いより恐怖が先に来て僕は慌ててページを閉じた。

そしてそのままトラウマになった。

しかし、人間はうまくできている。僕はそれからしばらく忘れていた。

消去ではなく、忘れていたのだ。
 
その事を『漂流教室』に出会った時、まざまざと思い知らされた。

まず、書店で断片的に覗き見た。

そして話が知りたくなった。いわゆる怖いもの見たさというやつである。

元来、本好きの僕は小説版が無いかと探した。と言っても今のようにクリック一つのアマゾンで探せる訳も無く、ただ本屋さんに足を運んだだけだが、なんとそれは存在した。

風見潤さんのノベライズ本が。

あんなにハマった事は無かった。僕はもう高校生になっていた。

そしてそれを読んだ。確かに学校に通っていたはずだが、今思い出しても読書しかしていなかったような気がするくらいのめり込んでいた。

足元にぽっかり穴が開いて、すぽっとそこへ沈み込んだ感覚。周りの音が遮断され、空想の世界にむりやりひきずりこまれた恐怖体験。

読み終わっても、まるで体がしびれて現実感を失いそうだった。

三国志にも随分ハマったけれど、あんな体験は後にも先にもたった一度アレだけだ。

多感な時期にしかも原作の凄さと無限に広がる空想力という、いろんな要因がうまく重なったのだろうけど、本当にアレはとんでもない体験だった。

だから『漂流教室』は僕にとって特別な作品だ。名作なんかで片付けられては困るくらいの。

ところで楳図先生に影響を受けた人は多い。

推理作家の綾辻行人さん、ゲーム業界に新風を巻き起こし若くして亡くなった『Dの食卓』の飯野賢治さん。『うずまき』で有名な伊藤潤二さんなど。

楳図かずおさんの作品の怖さは人間心理の怖さだ。

初期の作品、たとえば『ママがこわい』や『半魚人』などは、異形の者の怖さだった。

ところが、タマミで有名な『赤んぼ少女』や『おろち』では姉妹の醜い嫉妬心にスポットを当てる。『ねこ目小僧』や『ウルトラマン』等、時代の趨勢に合わせた作品もあるけれど、『イアラ』では究極の男女の愛を描く。

ここで恐怖は笑いへとシフトチェンジし、『アゲイン』、大ヒット作『まことちゃん』につながる。

僕が見たのはこの時期だ。

そして、感動と恐怖が融合した大傑作『漂流教室』を発表。

その後も母と娘の狂気の物語『洗礼』、究極の子供版ラブストーリー『わたしは真悟』、史上最高の恐怖漫画『神の左手、悪魔の右手』、漂流教室の続編とも取れる壮大な世界観の『14歳』と立て続けに傑作を世に送り出す。

以上、駆け足で作品遍歴を見てきたが、他にも『蝶の墓』『プレゼント』『黒い瞳』『わたしは誰?』『ねがい』『Rojin』(影亡者の原型)『背猛霊』『奪われた心臓』『魔性の目』『夜あるく者』『みにくい人』『サンタクロースがやってくる』『灰色の待合室』『見知らぬ男』『おそれ』『ヘビおばさん』『ツンドラ』『4の恐怖』『幽霊屋敷』『悪魔の数式』『死者の行進』等々、挙げだしたらキリが無い傑作ばかりだ。

『恐怖への招待』や『ウメカニズム』という作品紹介本を読むと楳図かずおさんの苦悩がかいま見える。ただのスプラッター漫画と片付けるのはどうかやめて頂きたい。

楳図さんは「子ども」なのである。大人の理論で子供の感性を描ける天才なのである。

そして恐怖と笑いの境界線を知っている人である。

ユリイカの対談でこんなセリフがある。抜粋なので多少分かりづらいが、ニュアンスは伝わると思う。

「いつもお話しするんですが、その違いは本当はないんです。怖くする人と怖くなっちゃう人がいると「恐怖」で、笑われる人と笑う人がいると「ギャグ」になる、その両者がセットでいるということはどっちもまるっきり同じだと思うんですね。違うのはむしろ、どっちの立場に立って視点を取るかで、さっきのギャグでも追っかけられる側に視点を置いたらやっぱり恐怖だと思うんです」

理詰めのストーリーを計算しながら、感覚で恐怖の演出ができる天才。

ところで先生は見ただけで怖い。

変わらないのだ。

変化が無いと言う事は、それだけ内部に確固とした自分と言うものが存在していると思うのだけど、一般に人は環境に流され、適応し、変化して行くものだから変化のない者を見ると戸惑うのだ。
 
やがて戸惑いは疑問へ変わり、それでも理解できないと恐怖へ変わる。
 
何年経っても変わらない赤と白のボーダーシャツ、現代の子が知るはずも無いまことちゃんの決めポーズ。くしゃくしゃのヘアスタイル。

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しかしながら、楳図さんは僕が子どもの頃から、ずっとそのスタイルなのだ。もしかしたら、あのボーダーシャツは特注なのではないかとか、自分でお切りになるとおっしゃったあの髪形も実は専属のメイクさんがいるのではないかなんて妄想がふくらむ。

楳図さんは、言葉がお好きなようだ。以前、NHKで何百本もの語学番組を録音したテープを見た。あらゆる国の言葉を聞き、体になじませているらしい。当然、思考の幅も尋常ならざるものだろう。

生活は至って質素。欲のかけらも見えない。

もう先生は本当にお描きにならないのだろうか。僕は過去の作品を読みながら、禁断症状が出てきておさまらない。

どうか先生、またあのドキドキする恐怖体験を僕に与えて下さい。

ファンの一人として切に願います。

余談:『やさしい唯脳論』の中でフリガナという文化が漫画を発展させたのでは?という考察があった。確かに絵と吹き出しの関係は、漢字とフリガナの関係にも似ている。映画館で字幕を苦もなく読みながら観られる日本人は漫画に原点があるのかもしれない。


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