読んでいるようで読んでいない文章

趣味で文章を読むのなら、どういう風に読んでも自由であることは改めて言うまでもないことです。

たとえば、このブログを読んでどう思うかも自由。

僕があることについて書いた意見や感想は僕の自由であり、それに対してどう思うかはみなさんの自由です。

ですが、たとえば商品のマニュアルに書かれている注意事項を正確に読み取れなった場合、何らかの不利益を被ることはあります。

他の人に何かを伝えたい文章は論理が根底になければ伝わりません。法律なんて最たるものでしょう。

共通の体験をしている場合なら、「あの時の試合、感動したよね」で通じることもその試合を共有していない人には、どういうところが感動的であったかが分からなければ評価のしようが無いし、またそれを聞いても大して感動的でない場合もあるわけです。

それくらい何かを伝えることは難しい。

でも、最低限何かを誰かに伝えるには論理という文章ルールがないと伝わりません。

そういうことを意識したのは、僕の場合は現代文の入試問題だったわけですが、いまさら問題集で勉強なんて、という人にうってつけな本がこちら。

短い設問と例題で論理とは何かが訓練できます。

では、具体的にはどういうものか、第一問を紹介します。

(問題)次の文章の「 」の部分に対して、筆者の立場は肯定か否定か。それはどの言葉から判断できるか答えなさい。

狂気の主人公が登場する映画で、主人公が髪を振り乱し、血走った目で殺戮する「シーン」があるのですが、観客に何とも言えない不快感を与える名シーンです。

さて、

どうですか?

この文章を読んで、否定だと答えた人はいないでしょうか?

「狂気」「殺戮」「不快感」という言葉があるので、否定だと思うのは読み手の自由です。でも、設問は「あなたが」ではなく、「筆者が」そのシーンを肯定しているか否かを聞いています。

従って、最後に「名シーンです」と書いてある以上、筆者は「肯定」しているのです。

ここがよくある、受験勉強は役に立たないと言われる点の大きな誤解かと思います。

(もちろん「思った」のは「僕」です)

作者が書いた文章を自ら解いてみたら、まるで違う解答になった、だからおかしい。

まるで、カラオケの採点システムに本人が歌唱して文句を言っているような感じですが、感想文と入試問題で解答するのは根本的に違います。

次の文章を読んで(あなたの)感想を書きなさい

次の文章を読んで設問に答えなさい

とでは、全く求められているものが違うのだということが分からなかった頃、僕は入試の現代文が苦痛で仕方なかった。

とくにマークシートの選択肢に自分が「思った」ことがないので選べない。そして、記述式で解答しても全然点をもらえないのはなぜかが分からず、悶々と悩んで過ごした試験時間は忘れられません。

学校の国語の授業は成績がいいのに、全国模試だと点が取れない。

でも、実は学校の試験も今から考えると先生が正しいとする答えを暗記し、それを自分の意見のように錯覚して答えていただけのように思います。

さらに授業では、先生に感想を求められて答えていることがさらに拍車をかけて、いわゆる客観的に文章を読むということが分からなかった。

さきほどの問題は問題である以上、採点基準を作らないといけません。

でも、問題を読んで「あなたが」どう思ったかには点のつけようがありません。

単に肯定か否定かという両極端で終わるものというのも決めつけすぎですし、何で限定されなければいけないのか、果てはなぜ答えなければいけないのか、ということにもなりかねません。

読書をしていて、いちいち考えるなんてことはしません。いや、している人はそれでもいいのですが、その意見に採点する人はいません。

なぜならそこに採点基準など必要がないからです。基準は人と話した時に自分の中に生まれます。

しかし、選抜試験である入試には基準がなければ採点できません。

1+1=2という問題に、りんご1個とみかん1個は足せないよねと思うのは自由です。でも、問題文には果物の種類までは書いていない。あくまで数の概念としての計算を試しているだけです。

仮にりんごに限定しても腐ったりんごとそうでないりんごをりんご2個として数えるかどうかは「食べられるか否か」という条件を付すかどうかで変わります。

そこにあるのは論理。

そしてそれに支えられた文章。

りんご2個あげるよと言われて、腐ったりんご2個だったら、その人とはもう付き合わないでしょう。

共通の土台があって初めて理解できる状況で採点するのが入試問題です。

解法がないところで大勢の人を採点することはできません。もししたら、それは採点者の主観でしかなく、不正と言われます。

入試問題の特性が理解できて読むならこちらの本は楽しく読めます。

ところで僕が出口先生に教わったのは、文章を恣意的に読まない訓練でした。

自分の書いた文章が自分の伝えたい通りに書かれているか、についてはブログを読み返して修正する度に悩みます。

ザッと勢いに任せて書いている時は、何も違和感を感じなかった文章が後から読むと意味のない接続詞で結ばれていたりします。

「もちろん」とは何に対してもちろんなのか。多用しがちな「やっぱり」も同様。その時書いた自分の頭の中には何か前提となる考えがあって、自分だけでなくみんなもそう思っているはずという思い込みから自然に出やすい言葉ですが、それは果たしてそうだろうかと考えてみる必要があります。

理由も書かずに「〜である」と断定されても、人には伝わりません。

では、最後にもう一問。

(問題)つぎの文章を読んでカッコ内に言葉を埋めなさい。

「そこの角にたばこ屋さんがあるやん。でな、そこを右にガーと曲がるねん。そしたら大通りに出るから、黄色いなんかの看板が見えるねん。それを左にバーと行ったら、行列が見えるわ。最近テレビで取り上げられて人気のラーメン屋らしいで。とんこつスープがあっさりしてておいしいらしいわ、(    )」

正解は「知らんけど」。

関西人の口癖だから。

知らんけど。


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