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場合分け議論のジレンマ

今日は抽象的な話をしますよ。

数学でよく使う「場合分け」という手法あるじゃないですか。

イメージとしては

aを偶数とする……かくかくしかじかでpは素数である。
aを奇数とする……かくかくしかじかでpは素数である。

よって、pは素数である。

みたいな感じで解くやつ。(偶数とか奇数とか素数とかは例で出してるだけで深い意味はありません)

場合を分けたら結論が変わる時もあれば、場合を分けても結論が同じになる時もあります。上の例は後者ですね。

この「場合分け」って、社会的な議論の時にも有用なはずと思うんですね。

たとえば、ある人、これをAさんとしましょう。Aさんは「a」という信念を持っています。

ところが他方、Bさんは「反a」という信念を持っています。まるっきりaと反対。つまり、"not a"であり、それっぽく書けば”¬a”です。(もっとも、現実の議論においては論理記号の文脈ほどきっちりとしたキレイな否定にはなりえませんが)

AさんとBさんはその根本の信念においてまるっきり正反対なので、当然その点で議論をすると対立してしまいます。Aさんは「aだ!」と主張して、Bさんは「aではない!」と主張すると。どうにも折り合いがつきません。

ただ、とりあえずそこの対立は置いといて、ここで「仮にaだとすると」「仮にnot aだとすると」という場合分けをして考えることは可能だと思うんですね。

それでそれぞれのケースを考えてみたところ、どちらの場合でも同じ「p」という結論が導き出されたとします。これはつまり、前提が「a」だろうと「not a」だろうとどっちにしても「p」になるということです。

ということは、AさんとBさんは確かに根底となる信念が真反対なものを抱えてますが、それでもなお二人とも「p」という点には合意できるはずなんです。

これは議論としては建設的な進展だと思うんですよね。前提の対立を解消することなく、双方の合意点を見出すことができて、それで次のステップにつなげることができるわけですから。

もちろん、必ずしも全ての議論で共通する「p」がキレイに見つかるわけではありませんが、それでもこうして「場合分け」をして双方が合意できる内容を探ることは十分有意義な行為ではありましょう。


しかし、この「場合分け」の手法は、「p」が見つかるかどうかという以外にも何かと障害にぶち当たります。

これ、あくまで仮定として「aの場合」「not aの場合」と分けてるのです。しかし、たとえば「aの場合」で議論を進めていた時に、Bさんみたいな「not a派」の人物から「お前はaを肯定するのか!」と怒られちゃうことがあるのですね。
当然、逆もあります。「not aの場合」で議論していたらAさんが食ってかかってくると。

再度確認しますけれど、これ、場合分けのためのただの仮定なんです。仮定なんですけれど、それを前提に話を進めてる雰囲気であるだけで、その仮定が自己の信念に反する人からすると、容認できなくなる時があるんですね。特に信念が強い人にとって、たとえそれが「仮に」であっても違う考えを肯定するのは不愉快なものなのです。

これがわりと短めの議論であったら、それでも「いやいや、これただの仮定なんですよ〜」と示しやすいのですけれど、世の中の議論というのは往々にして複雑怪奇ですから、その議論もめちゃくちゃ長くなりやすい。そうすると、最初の「仮定」が遠く昔に埋もれてしまっていて、「それが仮定なのかどうか」が見えにくくなるんですね(下手をすると議論をしてる当人でさえ忘れてたりも)。仮定が仮定であると確認できないので、一見すると普通に肯定しているようにしか見えなくなるわけです。

この長ーい議論の途中で人が立ち寄ってくることがある。すると、議論の中でぱっと見、「仮定」を示した箇所が全然見当たらないので、議論そのものが「我が信念に反してる」と怒り出す人が出てくるということになるわけです。

せっかくの「場合分け」の議論の最中に、ただの「仮定」についていちいち食ってかかられたら話が進まないので、すごく大変になるのですね。

考えられるひとつの対策としては、「場合分け」のためのそれぞれの仮定から結論まで全てをワンセットにして提示することですけれど、それはもはや超大作過ぎて、単純に「長すぎる」という理由で人々から興味関心を引かれないという皮肉な結果にもなりがちです。(なお、これが超大作にならないような社会的議論はそもそも単純・容易すぎるがために世の中で議論にならないですからね)

全てをドカンと提供するのではなく、一部の議論を「一口サイズ」に切り出した方がよほど人々に見てもらえる。しかし、そうすると「仮定」感がなくって、怒り出す人がいると。

なんとも困ったジレンマです。


ちなみに、「場合分け」の手法自体は一応巷でもしばしば用いられてはいます。

でも、江草がここで言ってるような共通の「p」を見出そうとするというよりは、「仮にaとする……かくかくしかじかで、だからaはダメなんだ!」という相手の立場の否定目的の仮定であることが多いですね。矛盾を突こうとする意識であって、建設的な合意点を目指そうとしてるわけではない。

まあ、実際には矛盾を指摘するのも大事ではあるんですけれど、そればっかりというのは寂しいですよね。

「どっちの場合にしてもpという結論にはなるよね」という場合分けの手法は、ひとまず膠着状態を抜け出して暫定的にでも呉越同舟、同床異夢を実現しうるという意味で一定のポテンシャルはあると思うのですけれど、自己正当化や敵を論破する志向ばかりが強い世の中で、なかなかスムーズに取り入れられそうにないというのが実情かなと感じます。

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