ドゥルーズとの接続 (1) SNSにおける承認・排除と「無人島」

序―SNSと排除
 承認が存在すれば、排除も存在する。一般に、ある空間に区別が生じ(線が引かれる)、どちらか一方の領域が浮き出て(もう一方は沈み込み)、その浮き出た領域=「図」を観察することではじめて何かが存在する (注1)。この区別→指定→観察のプロセスを経て、「存在する」ことは確立される。しかし、この定義によれば、あるものが存在するとき、他方のもの(沈み込むもの)は「存在しなく」なる。承認と排除はその最たる例だ。承認が存在すれば、排除は私たちの認識から外れ、瞬く間に「存在しなく」なる。だが、実際はそれを我々が観察できないだけで存在はするのだ。
 SNSは承認と排除の融合体だ。哲学者の大黒岳彦によると、インターネットでは情報共有や共通の趣味を持った人との出会いなどによって人々は融合し、他方フォローという機能は「仲間」を顕在化させることで仲間の「選民思想」を促進し、フォロワー以外の「非-仲間」を「排除」する。また、いつでもSNS上でつながることができるという認識をユーザーにさせることで、人と人とを現実的に切り離していると大黒は指摘する。ちなみに、先述した「選民思想」とは元来ユダヤ教の思想だ。ユダヤ教は神との契約によって成立する信仰で、その契約はユダヤ人によってのみなされる。だから、簡単に言えば、ユダヤ人以外はユダヤ教を信仰することができないのだ(注2)。一方、選民思想は派生したキリスト教では見られない。そのことによって、キリスト教は世界宗教の一つとなる。一部のユダヤ人によるユダヤ人国家を作ろうとする動き(シオニズム)が、パレスチナ人などイスラム教(これも世界宗教)を信仰するアラブ系民族を排斥することは、ユダヤ教が世界宗教ではないことを端的に示している。よって、SNSもこの「選民思想」的機能を外さない限り、ユーザーが世界的・地球的に繋がることは困難だ。

1 他者の必要性
 SNSでは多くのアカウントが自身のプロフィールを趣味で飾っている。なぜ趣味をプロフィールに羅列するかといえば、共通の趣味を持った人とつながりやすくなるためだ。これは先ほど大黒が指摘したように、SNSが融合の要素を持っていることを示す。これは現実における人との出会いでも見られる(趣味の共通性で友人および恋愛対象を見つける)が、SNSでは趣味一つ一つでアカウントを区別している場合が多い。SNSでは一人が複数のアカウントを作ることは頻繁にあり、多くはそれらを趣味で分けているのだ(本垢・裏垢というアカウントの公私の区別はこれに属する)。もちろん現実では、個人による趣味の分裂は不可能だ。では、なぜ人はアカウントを統一せず、趣味などによって同時に複数のアカウントを保有するのか。
 SNSでは他者の存在を過度に気にする。顕著な例でいえば、ユーザーはコンテンツを、他者にどんな印象を与えるのかを考えてから投稿する (注3)。この時、趣味をアカウントによって分離させておいた方がフォロワーへの印象が下がらない。自分がAとBの二つの趣味を持っているとしよう。もし同一のアカウントでAとBについての投稿をする場合、Aという共通の趣味を持ったフォロワーは、自分がBという趣味を持っていてもBという趣味においては共通でないから、それに対しては無関心であろう。なおさら、もしAとBが相反する趣味 (例えば、Aが洗練されたファッショナブルなものに対し、Bがオタク的な趣味) であれば、もしくはフォロワーがBという趣味に対して嫌悪感を持っている場合であれば、そのフォロワーはフォローを外す可能性が高くなる。結局、フォロワーの反応を予測し、趣味によってアカウントを区別する。アカウントによる趣味の分離をすることから分かるように、SNSのユーザーにとって他者という存在のフォロー=信用は必要不可欠なのだ。一人でSNSに写真を投稿をしていても無意味だ。他者からのフィードバック (リプライ、いいね!など) があることでこそ自身の投稿の価値がある(注4)。

2 他者の「邪魔」化と心地良さの追求
 しかし、最近では自分を認めてくれる他者という存在も邪魔になってきているようだ。いくつかの例を挙げる。一番身近な例は、ブロックやミュートといった機能であろう。あるユーザーをブロック・ミュートすると、その人の投稿はタイムライン上に表示されなくなる。ドナルド・トランプもTwitter上のブロック常習者として知られるが、最近彼がしたブロックは合衆国憲法修正第一条違反であるとマンハッタンの判事が判断した(注5)。5200万人ものフォロワーを抱えている有名人のSNSアカウントは公的なフォーラムであり、批判は受け入れられるべきだ、と判事は判断の理由を示す。どちらにせよ、ブロックやミュートは邪魔な他人を排除することでSNSを批判のない、「居心地の良い」環境へと変貌させるのだ。
 「鍵垢」と呼ばれる、アカウントをフォロワー以外に非公開にする機能もユーザーが他者のことを邪魔だと感じることを象徴している。通常、SNSの投稿は全世界のユーザーに公開され江湖の目に「晒される」訳だが、鍵が掛かったアカウントはユーザーに許可されたフォロワーのみが閲覧できる。多くのユーザーはこの機能によって自身のプライベートな情報が全世界に「晒される」ことを防止しようとしているが、この機能にプライバシーという効果は認められない。なぜなら、ユーザーのフォロワーが投稿を何らかの形で全世界に公開させることが物理的に可能だからである。本来、SNSの投稿にプライバシーはないはずだが、プライバシーを守るという名目で他者を門前払いする「鍵垢」もまた、SNSの環境を心地良くするものなのだろう。
 米Facebook社は昨年6月、AI(人工知能)を用いた過激派組織の投稿や組織に賛同する投稿の削除を始めるという方針を発表した (注6)。過激派組織のヘイトスピーチをAIが「排除」することは、一見すればSNS環境をクリーンにしてくれることだ。なるほど、過激派組織はSNS上で若者の認めたいという欲望を搾取し、精神的に孤立している彼らを雇用する。しかし、テロリズムという社会問題から目をそらすという意味では虫がいいのではないか。テロリズムという恐怖を自分の目の前から無くすことで安心したいのではないか。
 Twitter社やFacebook社傘下のInstangram社はSNSでのバーチャルな心地良さの形成を目指している。Twitterは攻撃的なアカウントやいじめにつながるコメントを減らす取り組みを始めるという (注7)。この機能によって、いじめにつながるようなコメントが会話上において8%減少したという。Twitter社のDel Harvey (注8) は、「我々は批判をコミュニケーションの場から排除することを目指してはいない」(注9) と言う。また、Instagramには「個人の容姿や性格を攻撃するようなコメントや、人々の心身の健康的な暮らしを脅かすコメントを自動的に表示しない機能」が搭載され、「より『心地よいコミュニティ』の維持に活用される」という(注10)。企業のこのような取り組みはユーザーの欲望を「忖度」したかたちで現れている。ユーザーの「排除」の欲望と企業のその搾取によって、排除の共犯関係は完成しているのである。
 ドワンゴ取締役CTOの川上量生は東洋経済オンラインでのインタビューに対し、「SNSで人間が付き合う相手も、間違いなくAIになる。人間は人間同士のコミュニケーションを放棄して、自分の友達、パートナーとしてAIを選択するようになる。だって絶対、人間の友達よりもAIのほうが性格いいもん(笑)。自分のダメな部分も全部受け入れてくれるからね。それは当人にとって、間違いなく幸せ。」と発言している (注11) 。人間は幸福を追求するため、「性格の良い」AIを相手にコミュニケーションをとるという。このとき、他者はAIとなり、ユーザーにとって「完璧」な存在となる。
 上記の例が明らかにすることは、我々は心地良さという幸福が欲しいがために、他人を「排除」することがあるということだ。そして、SNSを運営する企業はそれを様々な機能によって手助けしている。ここで重要なのは、排除の対象が全ての他者ではないという点だ。ここでいう「他者」は、自身に批判・非難をし、居心地の良い空間を壊す他者のことだ。このように「他者」を排除することで、私たちは自分と自分に非難しない他者以外の世界=他者がいるという実在(réalité)に盲目的になる。SNSは他者を前提(=必要)とする環境である。しかし、先程我々がみたように、最近SNSでは他者を「排除」する風潮が高まっている。この矛盾はどのように説明されるべきなのか。もちろん、この世には善い他者と悪い他者がいて、悪い他者は排除されるべきだと思う人がいるかもしれない。しかし、善悪は自分にとっての話であって、そのような「排除」の思想は自己中心的ではないか。そして、新たな問いが発生する。我々は本当に他人がいないと生きていけないのか。他人を「排除」する動きは自己中心的であるがゆえに、「排除」する人は他者を必要としていない(少なくとも自分に批判的な他者は)。ドゥルーズの「無人島」という概念を用いてこれらの疑問に答えたい。

3 ドゥルーズの「無人島」論
 ドゥルーズの「無人島」という概念は「無人島の原因と理由」という短い論考に初出する (注12)。ドゥルーズは「無人島」という概念を用いて、自己と他者との関係性を説く。この論考は以下のように進められる。
 地理学的に、島は大陸島と大洋島の二つに分類される。前者は大陸から派生した島、後者は海から隆起した大地として始源的な島である。まず理論上、島は無人である。なぜなら人が島を夢想するとき、島は大陸から分離し、一人ぼっちになる(大陸島的)か、ゼロからの再創造(大洋島的)のどちらかが行われるからだ。この際、「島についての想像力の運動〔=人が島を夢想すること〕は、〔人間以前の〕島を作り出す運動をやり直す」(「無人島の原因と理由」、p.15、〔)は引用者注。)。しかし、「島を作り出す運動をやり直す」とき、それは自分が島にいることを想定している(一人ぼっちになる=島には自分だけがいる)。この時点では島には自分という人がいるので、自分が夢想している島はもはや無人島ではないと思ううかもしれない。だが、それでは島は無人島ではなくならない。人が島に住むことだけでは、島が無人島でなくなるための条件は満たされないのだ。だから、人間は島を想像するが、その想像した島も同じく無人島であるため、「私」は想像力の飛躍を完成=神聖化することになる。この際、神聖化されたのは「島が無人島である」ということだ。
 であれば、島が無人島で無くなるための条件とは何なのか。それは、「人間は、自分を島に導く運動に帰着するのではなくてはならない」(同、p.16)という唯一の条件である。その条件を満たすには、想像力の飛躍をやり直さなければならない。そのとき、島にいるのは「自分自身に先立つ人間」(同、p.16)である。しかし、その人間は島を生み出す飛躍の運動とは別に「外側から島と出会う」(同、p.16)ので、これが島から無人島の性格を失わせる。「無人島とその住民との一体性」=人間が無人島を生み出す運動とともに島に辿り着くこと、はしたがって想像上のものである。これは「誰もいないカーテンの後ろに人を見たと思うような」(同、p.17)ことである。
 國分功一郎は著書『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書、2013年)で「無人島」論を分かりやすく解釈している。國分は、無人島を自我のない世界だと定義する。ここで、島が自我=主体のない世界であるのは、他者=客体がいないためである。他者は、それなしでは知覚が機能できなくなる「知覚領域の構造」であり、他者は「周辺的な世界」を組織化する。例えば、自分が建物などの障害物の裏側を想定できるのは、それが他者には見えているものとして考えているからであり、他者という対象化作用を獲得することではじめて自我は発生するのだ。したがって、無人島=他者なしの世界では「私に見えていないものは端的に存在しない」(『ドゥルーズの哲学原理』、p.56。太線部は引用元では傍点で強調。)。ドゥルーズの言う「誰もいないカーテンの後ろに人を見た」というのは、他者には自分の見えないカーテンの後ろが見えているという想定の下、自分には見えていないのにそう思い込んでしまうということだ。この時、「私」の意識は他者を前提としている。
 また、千葉雅也は『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013年)(以下、『動きすぎてはいけない』)で、「無人島」論をドゥルーズの代理-表象批判だと捉える。代理-表象とは差異のある事物をまとめることである。ドゥルーズは代理-表象のような全体主義的な動きを批判し、潜在的な差異が実在 (réalité) であると主張する。千葉はドゥルーズ哲学を<幼年期>と<少年期>の転換と解釈し、前者は経験論的なヒューム主義、後者は超越論的なベルクソン主義を位置づける。ヒュームはドゥルーズに連合-解離説を伝授し、ベルクソンは生気論的ホーリズム(「生」に依存する、決してほどけない因果性のネットワーク)と想像(イメージ)を伝授した。ドゥルーズはベルクソンからは全体主義的な生気論的ホーリズムをそのまま受け取りはしなかったが(ドゥルーズなりの構造主義的ホーリズムへの転換)、想像は受け取った。想像の重要性は認識しており、ヒュームの連合説(習慣化による連合の成立)はベルクソンの想像がなければ成り立たないとわかっていた。
 千葉のドゥルーズ論で特徴的なのは、ドゥルーズ哲学をベルクソン主義からヒューム主義への移行と、それがマジョリティとマイノリティの問題と関連づけられている点である。ベルクソン主義は千葉のいう「生気論的ホーリズム」という性格を持ち、それにおいてあらゆる存在者は決してほどけない。「この宇宙において、因果性のネットワークの全体的内在性に対しシャープに無関係な個体性は、ありえないことになる」(『動きすぎてはいけない』、p.135)。「シャープに無関係な個体性」というのはマジョリティから外れたマイノリティと同等の意味を持っていると解釈してよいだろう。したがって、マジョリティ-マイノリティ問題をベルクソン主義に準拠すれば、マイノリティを排除する全体主義的政治観を生み出す可能性がある (注13)。一方、ドゥルーズのヒューム主義においては連合-解離説を採用し、有限な範囲での他者との関係の拡張を図る。ベルクソン主義からヒューム主義への転回により、ドゥルーズはベルクソン的世界の全体性ではない、別々の連合それぞれの全体性=「器官なき身体」を展開できたのである(これについては『動きすぎてはいけない』、3-6を参照。)。
 これをもって初めて千葉の「無人島」解釈が理解できる。千葉曰く、ドゥルーズの「無人島」は大陸とは切断され、個体のイメージとしてゼロから再創造される。世界はこの時、非意味的切断のされた「複数のめちゃくちゃによるコラージュである」(『動きすぎてはいけない』、p.53)。この個体性は想像なくして成り立たない。なぜなら、先述した通り、個体性はヒュームの解離説により切断されたもので、それはベルクソンの「想像」ではじめて成立するからだ。

4 弱点の「知覚」
 ドゥルーズの「無人島」論はSNSの排除の風潮に多角的な示唆を与える。
 まず、他者を前提とするSNSにおける他者の排除という矛盾したSNSの構造については、他者を排除することで批判・非難からの自己防衛を試みているものの、他者という自我の対象化作用の欠如によって自己防衛自体が崩壊している。けれどもSNSでは不思議なことに、他者を排除した上での自我の発生が成立している。しかし、この「自我」は本当の自分なのだろうか。いや、そうではない。他者は必要だが自分に反する他者は必要ない、というSNSユーザーの動きは当人にとっては確かに心地良いものかもしれないが、自分に批判的な他者は自分を「知覚」する上で非常に重要な存在だ。國分の言葉を借りれば、他者は自分の「知覚領域の構造」である。大前提としてヘイトスピーチやネットいじめは排除されるべきだ。しかし、自分への批判は自分の弱点を「知覚」することを促す。弱点を修正できるのもそれを自覚してからだ。そして、自己の弱点を認識しながら、自己の存在を研鑽していくのだ。一方で、トランプ的なSNSの使い方=「アンチ」ユーザーを次々とブロックすること(これは現実的な人との付き合い方も同様)は、自らの弱点を自覚していない為政者を生むものであり、このような使い方は推奨されるべきではない。
 ここで思い出すのは米国のリベラルアーツカレッジで五本の指に入るPomona Collegeの2018年度のエッセイクエスチョンの第三問だ。
A recent Critical Inquiry course at Pomona, ''I Disagree,'' poses these questions: What does it take to be the one juror out of twelve who votes innocent? What are the dangers of living with people who agree with you? How does a scientific or a religious community confront troublesome new ideas? Consider one or more of these questions and address ''the noble art of disagreement.''
(最近の大学での批判的探求のコース「私は反対する」では、以下のような質問があがる。12人の陪審員の中でただ1人「無罪」に投票する陪審員になることはどういうことか?自分の意見に賛成する人と共に生活することには、どのような危険があるか?科学的および宗教的なコミュニティは面倒で新しいアイデアとどのように直面するのか。一つ以上の質問について考察し、「反対することの高貴な芸術」について考えを述べよ。)(注14)
 この問題における「反対する」とは、批判することと同義と見てよい。批判することが「高貴な芸術」であるとは考えにくいかもしれないが、批判された者は反省と改善を促される。だから、より「芸術的な」批判は批判された人の反省と改善を促進し、その人を成長させる助けとなるのだ。大学側としては、志願者が自己の経験として批判を受けた際、それをどのように好意的に捉えたのか、どのようにその後の自己形成に利用したのか、を書いてほしいのだと思われる。
 このように自分に批判的な意見を与えてくれる他者を「他人」と呼ぶことにしよう。では、私にとっての他人はどこから出現するのだろうか。吃音当事者であり吃音を研究する伊藤亜紗は『どもる体』(医学書院、2018年) で、「他者」と「他人」を区別した上で、「私に共感してくれる『他者』との親密な対話ではなく、会ったこともない『他人』によるマイペースな解釈。それがかえって私の経験を開いてくれたのです。... 切断されたところにいる他人が、私を言い当てることもある」(『どもる体』、p.251) と言っている。伊藤は自分の体の持っている吃音をテーマに本を著すことが初めてだったため、デザイナーの良い意味で細部にはこだわらないイラストによって自分の吃音を相対化してみれたと言う。伊藤の場合、他人であるデザイナーは意図しないところで自分に重要な示唆を与えてくれた。デザイナーのイラストは伊藤にとっては、千葉の言う「シャープに無関係な個体性」だったのだ。先ほどの引用で伊藤がドゥルーズ的な意味での「切断」を使って他人を表現していることはこれと無関係ではない。よって、他人は自分にとっては「シャープに無関係な個体性」である場合が多い (注15)。
 本題のSNSに戻ろう。SNSで「シャープに無関係な個体性」は存在するのか。客観視すれば、SNS上に個性的なアカウントは無数に存在する。しかし、主観的に見れば、「シャープに無関係な個体性」はほぼ存在しない。SNSのタイムライン上ではフォローしている人の投稿が流れてくるのが一般的だ。前述したように、SNSユーザーはフォロー・フォロワーを「選民する」傾向があるため、主観的なSNSの世界はベルクソン的な「因果性のネットワークの全体的内在性」を持っている。ベルクソンの生気論的ホーリズムにおいて、「シャープに無関係な個体性」=マイノリティは存在しないので、SNSにもそれは存在しないことになる。SNSには関係/無関係の二項対立しかない。そしてその二項対立は第2章で挙げた例のように顕在化されている。SNS上に伊藤のいう「適度な距離」にいる他人、関係と無関係との間の他人はいない。千葉の著書のタイトルをもじれば「関係しすぎてはいけない」のだ。
 SNSが開発された当時、SNS上で期待されていたのは活発な議論、しかも一般人による「地べたから」の議論である。しかし、今となっては多くの人が他者との関わりを遮断し、内輪の仲間での「いいね!」の取り合い合戦を行なっている(もちろんSNSの使用目的は個人の自由だ、たとえそれが承認欲求を満たすためであったとしても。)。一方、一般人ではない「専門家」や「学者」などは議論を交わしてはいるものの、思想的に似ている仲間同士での議論に終始している。議論で期待されることは言説に対する批判とそれによる弁証法的止揚である。ある意見に対して多様な視点から批判が加えられ、その意見を改善しようと議論に参加する多くの人が考える。だが、他者の排除=多様な視点の排除であり、多様な視点の欠如は議論の質を低下させ、議論を停滞させる。もちろん、この状況を逆手に取ろうと本質的な議論なしに強行採決的プロセスで法案を通す人たちも出現している。SNSがこんなにも内向的になっているとは当時の開発者も全く予想できなかったことの一つだろう。
 「他者がいないと私たちは生活できない」。このような言説は数十年後したらもう消え去っている可能性がある。ロボットが発達し、我々の肉体労働を代替してくれるとの期待が高まる中、もしそれが本当に実現した場合、私たちはもはや人間としての他者を必要としない。だから、他者を排除したとしても私たちは物理的生活が可能になるのかもしれない。だが、先述した通り、精神的な主体は他者/他人の多様な批判的意見によって支えられている(人工知能が多様な、そして人間的な批判を人間の代わりにしてくれれば別の話だが)。日本社会は、よく経済的に停滞した観点を踏まえて「低成長社会」と表現されるが、SNSの内向性(批判の排除の姿勢)は精神的な低成長をもたらす/もたらしているのではないか。


注1. 大黒岳彦、『情報社会の<哲学> グーグル・ビッグデータ・人工知能』、勁草書房、2016年、を参照のこと。参考までに、浮き出た領域=「図」と沈み込む領域=「地」があり、人間は一度に図しか意識できないという心理学的概念「ゲシュタルト」が知られている。
注2. ユダヤ教徒になる条件は母親がユダヤ人であることである。
注3. これを大黒は「溜め」の不在と呼び、SNSの特徴の一つとして挙げる
注4. SNSの正式名称 Social Networking Service を見れば一目瞭然だ。Social(社会的)という言葉に、他者との相互的インタラクションという意味が含意されている。
注5. John Herrman and Charlie Savage, "Trump’s Blocking of Twitter Users Is Unconstitutional, Judge Says​​​​​​"​, The New York Times, 2018/5/23, http://www.nytimes.com/2018/05/23/business/media/trump-twitter-block.html (アクセス日:2018/7/22)。ちなみに合衆国憲法修正第一条は宗教の自由、表現・報道の自由、集会の自由、請願の自由を定めている。ここで争点となっているのは、トランプがブロックされたユーザーの表現の自由を奪っているということである。
注6. Glenn Chapman、「フェイスブック、AI活用強化で過激派排除の環境づくり」、AFPBB News、2017/6/16、http://www.afpbb.com/articles/-/3132258 (アクセス日:2018/7/22)。
注7. Sarah Frier, "Twitter to Reduce Visibility of Disruptive, Negative Accounts", Bloomberg, 2018/5/15, http://www.bloomberg.com/amp/news/articles/2018-05-15/twitter-to-reduce-visibility-of-disruptive-negative-accounts (アクセス日:2018/7/22).
注8. 彼は ツイッター社の vice president of "truth and safety"「真理と安全」部の副部長)であるが、攻撃的なコメントを「排除」することで真実を隠していることに貢献しているのではないか。ジョージ・オーウェルの『1984年』で登場する「真理省 (Ministry of Truth)」を想起させる。
注9. 原文は、"we aren’t trying to remove all disagreement from communal places"、訳は引用者。
注10. 松村太郎、「インスタにハマっている人が喜ぶ秀逸新機能」、東洋経済オンライン、2018/5/12、http://toyokeizai.net/articles/-/219773?display=b(アクセス日:2018/7/22)。
注11. 引用は、長瀧 菜摘、「川上量生『中国のネット管理政策は正しい』」、東洋経済オンライン、2017/8/22、http://toyokeizai.net/articles/-/185263?page=2(アクセス日:2018/7/22)。
注12. ここでは、ジル・ドゥルーズ、『無人島 1953-1968 』、河出書房新社、2003年、に所収されている前田英樹訳のものを用いる。
注13. 千葉はこれを存在の一義性と絡めて論じ、全体主義的価値観のことを「存在論的ファシズム」と呼ぶ。ちなみに、レヴィナスは『全体性と無限』でベルクソン主義に対し強い批判を行っている。生気論的ホーリズムでは、喜ばしい「共生」が強制的に予定されており、そこにはシャープに分離する他者の自由は認められていない(『動きすぎてはいけない』、p.148、を参照)。
注14. 訳は引用者。http://www.collegeessayadvisors.com/supplemental-essay/pomona-college-2017-18-supplemental-essay-guide/ (アクセス日:2018/7/25)を参照。
注15. だが、「無関係」という言葉はここでは適さない。伊藤は、他人を「適度な距離」にいる人であると位置付けている。無関係ではなく、いい塩梅での関係が重要なのである。

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