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シトロエンの孤独

 「ああ……海の匂いだ」

 鉛色の雲が垂れ、松の防砂林は昼だというのに日暮れの影を落とす。女がハンドルを握る黒いシトロエンは、古い映画のような色彩の中を疾駆する。助手席の男は何も言わなかった。

「相変わらず錆臭いなあ」

 女は分かっていた。錆びの匂いは、海浜公園の遊具や野球場のフェンスが、潮風で緩やかに殺される匂いではない。

「あんたと出かけると、いっつもしまらなくて笑っちゃうよね」

 助手席の男は女に寄り掛かった。思わずハンドルが右にブレて、女は肘で乱暴に男を押し戻す。男は女の左肩に血をべったりと貼り付けて、ダッシュボードに顔面を強打した。男は何も言わない。

「ほんと、笑っちゃうよね」

 男は、小さいライブハウスを半分も埋められないバンドでギターを弾いて、そうじゃない夜はホストをしていた。似合わない金髪。ひきつった営業用の笑顔。東京から逃げてきて、居どころのなかった女に優しかった。

 男は死んでいる。急に金回りの良くなった男が納車したばかりの黒いシトロエンは、今や霊柩車となって海を目指している。どうせ詰めが甘かったのだろう。こいつのように。女は、後部座席からはみ出した何一つ趣味じゃない大きなテディベアを見た。

 男を殺したので撃ち殺したロシア人たちはどうなったろうか。人を撃つのは東京以来だった。

 女は海水浴場の駐車場で車を止める。女が一回もはめなかったペアリングの片方を後生大事に薬指にはめた男の手をじっと見ると、テディベアの手を取りシトロエンを降りる。

 イヤフォンをはめて、鳴り出した音楽を聴きながら、女は男の愛した真っ青な髪を結わう。暴力に飽きて東京を逃げてきた女は、残りの暴力を全て使い切ると決めた。

 サイドミラーに映るのは、右手に拳銃、左手に大きなテディベアを持った、黒づくめの女。

「ばかみたいだな」

 答える相手はもういない。

 女はシトロエンに引き金を引く。

【続く】

うれしさ
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