見出し画像

「原稿用紙二枚分の感覚」応募作品と評を読む

 伊藤緑さんのイベント「原稿用紙二枚分の感覚」。
「note で表現力を鍛える」で紹介しましたが,全49作の評価が終わり,結果が発表されました。

作品と評価文は,マガジン「原稿用紙二枚分の感覚」にまとめられています。

 応募された作品は実に多様でした。テーマ,構成,文体,表現のどれをとっても実にバラエティに富んでおり,それだけでも,作品と評価文を比べていくことは,文章を書くためにおおいに参考になります。

すべての作品とその評が紹介されたところで,私の感想を書いていくのですが,かなりの分量(8000字)になってしまいました。
お時間のあるときにどうぞ。
なお,以下は,結果発表の前に書いたものです。したがって,評点は考慮されていません。

1.イベントの意図と評価文の読み方

 まず,募集要項を確認しましょう。


賞(行事)を開催するにあたり

五感と自然描写と動きだけで描く、掌編小説限定の催し

と,はじめに示されています。
具体的には次のように書かれています。

 小説を開けば、必ず心理描写があります。心の状態を直接的に表現する単語があります。もし、それらを可能な限り排して小説を書けば、どうなるか。五感と自然の描写のみで、人や物の動きだけで、いったいどこまで描けるか。なかなかイメージしにくいかもしれませんが、たとえばこんな感じです。

このあとに,伊藤さんご自身の作品「髪,切ろかな」が例示されています。この例はぜひ読んでください。


書き方は自由です。上記の作品のように綴る必要は一切ありません。あくまでも一例です。

と断り書きはありますが,この例をどう読むかが大きなポイントになっています。
単なる「こんな感じ」なのかどうか。

提示されている評価項目を見ておきましょう。

1.全体の統一性や必然性。破綻や偶然性の濃さ。
2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。
4.基礎的文章力。
5.作中における空気感、雰囲気。文章全体や細部における「感じ」。
6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。

例示された「髪,切ろかな」は,独特な文体になっています。
「た」で終わるのでなく「て」で終わる文を多用しています。たとえば,「注文した」ではなく「注文して」としています。そうでない場合は体言止め。「ました」で終わるのは第1段落と第2段落の最後と,文章の最後だけです。これは,段落構成にも関わっています。
 この独特な文体で,物の動きや,そこから五感に響いてくるものを書き連ねることによって,情景が映像として読者の脳の中に形成されるようになっています。
 物語としては,「焼き鳥を頼んで,それができ上がるまでの間,髪がまとわりついてくるのを感じて,切ろうと思った」というだけのものです。
 しかし,髪を切ろうと思ったのが,ただまとわりついてくるのがわずらわしかっただけだったのか,他に理由があるのかは明かされません。「他に理由があるのではないか」と読者に思わせるのは,最後の段落の「つぶやいて,うつむけば」にあります。この「人の動き」で,内面に何かがあることを暗示しているわけです。
 そう思って読み返すと,先ほど映像化された情景に変化が起こるでしょう。細かい表現,たとえば「煙って見える国道」が,物理的な「煙って」だけなのか,そのときの心理を映しているものなのかが気になってきます。
 さらに,「焼き鳥」がなぜ焼き鳥なのか,ということにまで想像が膨らみます。たまたま焼き鳥だったのか,以前彼と一緒に食べた焼き鳥だったのか。
 どうということはない「焼き鳥を頼んでいる間に髪を切る気になった」だけの物語のはずが,読み返すたびに陰影を深めていくのです。

 この作品と評価項目を読んだ後,応募作の評価文を見ていくと,評価基準をどのように設定しているのかが明確になってきます。
 先の評価項目のうち

  2.五感や自然、動きの描写が異質か。心奪われる表現があったか。
  3.作中人物の内面が(何らかの形で)伝わってくるか。

が,「五感、自然描写、動作のみで描かれた(心理描写を可能な限り排した)小説」という制限のもとで行われています。

  6.再読したいと思ったか。読み返したい小説だったか。

は,前述のように,読み返すたびに陰影が変わっていく面白さです。

 逆にいうと,その制限以外のことについては評価は下されていません。ストーリーや段落構成,作品の意図などについてはほとんど言及されていないのです。

「原稿用紙二枚分の感覚」 評価や採点の基準について

あるいは,冒頭に引用してある結果発表をよく読みましょう。

2.「説明」か「描写」か

 前述のように,評価項目は事前に示されていますが,実際に評価文を読むと,この「要項」には使われていない,重要な概念を表す用語があることに気がつきます。「説明文」です。「説明調」「説明になっている」も同じです。
 要項には,「五感、自然描写、動作のみで描かれた」と書かれていて,「説明調にならないように」とは書かれていません。しかし,この2つは同じ意味だと考えてよいでしょう。
「説明しないで表現してほしい」ということです。このことが,評価の主調になっています。
 つまり,「五感、自然描写、動作のみで描く」という,この強い制限を,どのくらい理解して制作されているかが大きなポイントだということです。

 わかりやすい例として,最後の49番「祖父の想いで」を見てみましょう。

伊藤さんの評はこちらです。

 まず,本文を読んで,これを自分が添削することを考えてみます。
 なお,私は基本的に文学系の人ではないので(数学屋),読むときには,どうしても「筋道が立っているか」「矛盾したことはないか」といったことに目がいってしまいます。そのつもりで以下を読んでください。
 たとえば,次のようなことが考えられます。

・1行目の「それは夢だと解っていた」,4行目の「それが夢なのだと解った」はいらない。あとで夢だと解るのと,はじめから夢だと書いてしまうより,あとで「夢か」と思う方が味わいがある。
・2行目の「なのに」はカットして,ここで改行するとよい。
・「祖父が叱責する」は,何と言ったのか台詞を書くと,人物の関係性がわかる。
・下から4行目の「夢の中で,夢を見ていた...?」はなくてもいいかもしれない。2度の「目が覚めた」でわかる。
・「見たことはなくとも,確かに皆,知っている顔ぶれだった。」は矛盾している。
 「見たことはないはずなのに,皆,知っている顔ぶれだった。」とすると,読者は「なぜ?」と思うだろう。「はずなのに」の効果である。

 ところが,伊藤さんの評価はまったく違います。しかも,「無評価」とされてしまっています。
それは,評価文を読めばわかりますが,ほとんどが「説明的」で,「直接心理を描写した」と判定されたからです。確かにその通りだと思います。しかし,それは「評価基準(制限)に合わなかった」だけのことであって,作品そのものが全否定されたわけではありません。
 他の作品でも,「ボロクソに書かれた」と感じる人もいるかもしれませんが,それは,この「制限」に合致しなかっただけのことです。総評を見れば,伊藤さんが作品全体を否定しているわけではないことがわかります。これは,評点についても同様です。「制限」に合致しているかどうかで評点がついているので,作品全体としての評点ではありません。
 そこを正しく理解しないと,「表現力を高める」ことにはつながらないでしょう。
「祖父の想いで」の場合,私はファンタジックでいい作品だと思います。伊藤さんの評価や,前述のような私の修正案,もちろん他の修正案もあるでしょうから,それらを考えていくことで表現力が高まっていくと思うのです。

 では説明を一切排除してしまうことは可能なのか。ここに,この「制限」のハードルの高さがあります。さらに,「説明」と「描写」の境目があいまいな場合もあるのです。
 それぞれの作品とその評を見て,「説明」か「描写」かを考えていくしかありません。そのときに,まず本文を読んで,「説明だけになっていないか」「心理を直接描写していないか」「違う表現はないか」を考えてから評を読むとよいと思います。


3.「制限」以外のこと

 では,この「制限」以外のことではどうか。それについて考えてみるのもよいと思います。

・この作品で作者は何を表現しようとしたのか,そしてそれは伝わっているか。
・作者が伝えたいことを,適切な段落構成や言葉の使い方で表現できているか。

といったことです。
このような視点で考えてみると,「制限」について考えつつも,伊藤さんの評価とはまた違った印象を持つ作品がいくつもあります。「制限」以外の要素を「制限」と完全に切り離してしまうことはできないからです。

たとえば,伊藤さんが「問題作」と指摘した,24番 立ち尽くす女 です。

評はこちら。

 評のはじめ,「全体を流れる説明調をどう受け取るかによって,この作品の色彩は百八十度変わります。」は,その通りだと思います。
 そこで,伊藤さんの評の根底に流れる解釈とはまったく違う解釈をしてみました。

 作者の町村さんが,この作品で何を表現したかったのか,というところから出発します。
 私は,それを「都会の孤独」と捉えました。あいまいな表現ですね。大都会の中で立ち尽くす孤独な人を表現した,といえばいいでしょうか。

 伊藤さんは「私」と「彼女」は同一人物ではないか,としました。私は,別であると見ます。彼女を見ている「私」は人間でもいいし,時計台でも,広告塔でもいい。擬人化された何かでいいのです。なんなら「神」でもいい。伊藤さんも,「語り手の冷たさ,無機質さ」と書いています。
 伊藤さんがあまり指摘していない(こだわっていない)ものがあります。「なぜ足を踏むのか」です。私はここに「孤独感」を見ました。「足」が「心」の比喩だとしたらどうでしょう。通りすぎる人は誰も足を踏んだことに気づかないか,気づいても知らんぷりしていく。「足を踏む」というのは,人との接点なのに,それはただ数えられるだけ。
 としたら,どのように踏んでいくのかを書いていったらよかったのではないかと思います。踏んだことに気づかない人,あわてて足を離す人,じっと顔を見てから去っていく人。都会の人々とのいろいろな関わりを描くのです。もちろん,この解釈が違えば,どのように踏むかは意味がなくなります。

 彼女は途中から数えるのをやめてしまいます。都会での人との関係に疲れ切ってしまったかのように。
 伊藤さんは,「私が「百」という数字をあてもなく呟こうとしたとき」について,「あてもなく」が心理描写だと指摘しましたが,私はここはスルーです。「あてもなく」は,「百という数字はどうでもいい」という意味に解釈したからです。単に区切りを示したものと考えました。彼女を見ているのが時計台だとしたら,そもそも「心理」は不要です。
 踏まれながら「摩擦熱」が刻まれていきますが,ここは解釈が難しいところ。「摩擦熱が凝縮した」は,何を表現しているのか。国語の試験だったら,5つの選択肢が用意され,それがすべて正解だ,という事態になりそうです。

 こうして,最後の一文「だが,その一連の流れを知るものはあまりにも少ない」を迎えます。伊藤さんは「全体を読めば分かる」として,「ここがないか,あるいは完全な説明ではなく説明的な表現であれば」と言っています。
 私の解釈だと,この文が「孤独さ」の確認になっていると考えます。彼女を振り返る人も,彼女を見守る人もいない,ということです。この文をなくしてしまうと,「彼女を見守る人は誰一人としていない」ということを表現できません。
 では,「完全な説明ではなく説明的な表現」にはできるでしょうか。たとえば

何も知らない人たちだけが,彼女に駆け寄っていた。

というのはどうでしょう。

 以上は,私の解釈です。人によっていろいろな読み方があるでしょう。この作品が「問題作」である所以です。

 小説や詩などを書くとき,読む人に思いを伝えたいというだけでなく,種だけを蒔いてどう咲かせるかは読者に任せる,という行きかたがあるでしょう。町村さんは,種を蒔いたのかもしれません。


4.リライトに挑戦

 伊藤さんの評を読んで,また,自分なりに本文を解釈して,書き直しをしてみるのもいいと思います。
 ここでは,10番 どないもならへん  siv@xxxx を取り上げます。

評はこちらです。

まずは,本文,次いで評価文を読みましょう。本文だけでなく,評価文を読むことで,見えてくるものがあります。

まず,登場人物について。
私はこう読みました。他の人はまた違う読みをするでしょうから,それはそれで。

ミカは,屈託のない話し方で明るく振る舞うが,本当はさびしがり屋の面を持っている。
エイジは,結構格好つけてるけど,ちょっと頼りなく母性本能を刺激するような男性。

ミカの性格付けを説明しましょう。
コンビニの店員を真似たり,「お金もやで」と笑いながら(とは書いてないけど)話したりする明るさ。これは異論はないでしょう。
では,なぜ「本当はさびしがり屋」なのか。
それは,電車に乗ったとき,「室内は空いていたがミカはドアの手すり横に立った」にあります。
なぜ,空いている席に座らず,手すり横に立って,何をしているのかを考えて(想像して)みます。
ドアから見える雨を見ているのでしょう。それは,雨に濡れながら通り過ぎていく街かもしれないし,窓を斜めに叩く雨粒かもしれない。
その雨を見ながら,物思いに沈む,ということから「さびしがり屋」の顔が見えてきます。
「さびしがり屋」ではなく,ロマンチストというべきかもしれませんが。

 そこで,最後の一文です。
伊藤さんの評に,「誕生日だということは,描写で示してほしかったです。たとえば,友人からのメッセージが届いて・・・」とあります。
ここは重要です。
「今日はミカの誕生日だった」で,ミカとエイジの関係や二人の性格の違いなどが急に見えてくるからです。
 ミカは自分の誕生日を,他でもないエイジと,焼き肉を食べるひとときを共有するということで過ごした。しかし,「今日ね,わたしの誕生日なんだ」とミカは言わず,エイジもそのことに気づかない。格好つけ屋なくせに,繊細な心配りを持ち合わせないエイジと,それでもエイジに引かれるミカ,という構図です。また,明るく振る舞うのに,今日が誕生日なんだと言わないところが,ミカの一面を表しています。
 それを,直接説明するのではなく,描写で示すことによって一層際立たせたい,というのが伊藤さんの評なのです。
 そんなシチュエーションが見えてくると,伊藤さんの評の細部も考慮しながら,この作品をリライトしてみたくなりませんか。
私はなりました。

 失礼ながら siv@xxxx さんから許可をいただいたので,リライト文を提示します。あくまでも私の解釈に基づいたものです。解釈が異なれば,違ったリライト文ができるでしょう。また,説明文をすべて排除しているわけでもありません。
 なお,改行位置は変えてあります。これは,改行や空行による段落構成によって読むリズムが変わるからです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

今日の降水確率は50%だというのをすっかり忘れて家を出た。
エイジと待ち合わせている鶴橋駅で黒い折畳み傘を買う。
「PayPayで」ミカはスマホを店員に向けてから「やっぱし現金で」と言い直した。財布に2枚あった一万円札のうち1枚を出す。
「ただいま五千円札を切らしておりまして」
返ってきたのは千円札が8枚と小銭。

ふたりで焼き肉を食べ終わった。
エイジは先に店を出てスマホをいじっている。
ホックが留まらないほど膨らんでいたミカの小さな三つ折り財布がもとの形に戻った。
「あの店、あんま旨なかったよな」
出てきたミカにエイジが言った。「結構ええ値段とるくせに」
ええ値段なのかどうか。
エイジはスロットでそれくらいの金額を1時間で軽く使い切るし、ミカはバイト先のスーパーで8時間レジを打てば同じ金額をもらえる。

鶴橋駅での別れ際「ごめんやねんけど・・・」とエイジが切り出した。
ミカはスリムになっていた財布をあけると,
「ただいま五千円札を切らしておりまして」
コンビニ店員の真似をしながら一万円札を抜いて差し出した。
「来週、絶対返すから」自分の財布にそそくさとしまう。
「あんたが財布出すとこ、今日初めて見たわ」
エイジは「ほんまや」と笑った。

「そんじゃ」背を向けたミカに「雨降ってきたわ」エイジの声が聞こえた。
「これ使い」
さっき買った折畳み傘をエイジに投げる。
「忘れんと返してや」「わかった」
「お金もやで。傘より先にな」「わかってるって」

階段を上って内回りホームに着くとすぐ電車がやってきた。
車内は空いていたがミカはドアの手すり横に立った。
雨が激しくなってきていた。
「また傘を買わなきゃ」
スマホに友人からのメールが着信していた。
「誕生日だね,おめでとう」
ミカは左の目で少しだけ笑って,ドアに視線を戻した。
雨だけが斜めにガラスを叩いていた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


5.「原稿用紙二枚分の感覚」から何を学ぶか

 伊藤さんは,「原稿用紙二枚分の感覚」 評価や採点の基準について

の中でこう述べています。

評はおまけと述べました。自分の評や点数などは、みなさんが書き、読んだという事実に比べたら、極めて瑣末な事柄であること、お伝えしておきたいと思います。

しかし,これは謙遜でしょう。
これまでに述べてきたように,単なる説明文で終わってしまわないためにどう表現するか,それによりどのように作品に深みが増すのか。伊藤さんの評から多くを学ぶことができます。
 私は全文をプリントアウトして読みましたが,様々なタイプの文章に対し,一つの観点からのみ光を当てると,それがぴったり適合する作品もあればそうでない作品もあります。その違いを考え,リライトしてみるのもいいかもしれません。何といっても他人の作品です。どんなに酷評されていても痛くもかゆくもありません。気楽にやれます。(公表するなら許可を得ましょうね)
でも,その作業を通じて,あなたの中に眠っている表現力が目を覚ましてくるのを感じることでしょう。私は,siv@xxxx さんの「どないもならへん」のリライトでそれを感じました。(もっとも,リライト文がよければの話ですが)
 プリントアウトした全49作(削除されたものもありますが)について,2度,3度と読み直していけば,さらに発見があるのではないかと思います。

 最後に,伊藤さんの評文ですが,普通の評論文ではなく,これそのものに文学の香りが漂っているな,と感じたことを申し添えておきます。