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マーラーの"アダージョ"の真骨頂 交響曲第3番第6楽章

マーラーのアダージョといえば,第5番の第4楽章が有名かもしれない。
正しくはアダージェットだが,映画で使われたことで有名になった。
「アダージョの楽章」が現れるのは第3番交響曲からといっていいだろう。
ただし,速度指定としての Adagio は書かれていない。
Langsam. Ruhevoll. Empfunden. ( ゆるやかに、安らぎに満ちて、感情を込めて) である。
多くの人が第6楽章をアダージョと呼んでいるようなのでそれに倣った。
そういう意味で第3番以降を考えると次の楽章が "アダージョ" の対象となるだろう。
第4番 第3楽章 Ruhevoll, poco adagio
第5番 第4楽章 Adagietto. Sehr langsam.
第9番 第4楽章 Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend

これらの中で,どれが一番かは人によって異なるだろう。少しずつ印象が違うからだ。
「音楽・映画・文化評論サイト 花の絵」によると,第3番の各楽章には,当初次のような標題が付けられていたが,のちにははずされたという。

夏の真昼の夢
第1部
序奏 牧神(パン)が目覚める
第1楽章 夏が行進してくる(バッカスの行進)
第2部
第2楽章 野の花たちが私に語ること
第3楽章 森の動物たちが私に語ること
第4楽章 人間たちが私に語ること
第5楽章 天使たちが私に語ること
第6楽章 愛が私に語ること
なお、第6楽章の「愛」は個人的・世俗的な愛ではなく、愛としてのみ把握出来る神のことである。それを踏まえた上で、作曲者は当時愛していた歌手アンナ・フォン・ミルデンブルクに宛てて、「この楽章を『神が私に語ること』と呼び変えてもよいくらいだ」(1896年7月1日付)と書いている。いずれにしても、これらの標題は出版時に全て削除されたので、作品への理解を補助する参考資料以上のものではない。

 20年ほど前からだろうか,いろいろな場面で「傷つく」と「癒される」がよく使われるようになった。
 第5番の第4楽章は,聴いていると「癒される」の代表格かもしれない。
ただし,背景を考えると,「このアダージェットはマーラーがアルマに宛てた愛の証である」(メンゲルベルク)というように「癒やし」より「愛」のようだ。ルキノ・ヴィスコンティ監督の傑作映画「ベニスに死す」でも,そのような意味合いでテーマ曲として使ったのであろう。

 では第3番の第6楽章はどうか。先ほどの標題も参考にしてみると,この第6楽章は「癒やし」の音楽ではないことに思い至る。実際,聴いていても「癒される」感じではない。
 第5楽章 天使たちが私に語ること では,児童合唱団の「ビム・バム」という鐘の音を背景に,アルトが次の歌を歌う。

三人の天使がやさしい歌を歌ってた
喜びに満ちて歌は幸せに天国に響いてた
彼らは嬉しそうに歓声をそこで上げていた
ペトルスは今や罪から自由なのだ!
罪から 罪から 
罪から自由なのだ!
そして主イエスがテーブルに着かれ
彼の十二の弟子たちと共に晩餐をお取りになったとき
そこで主イエスはおっしゃった:「なぜお前はそこに立っているのだ?
なぜお前はそこに立っているのだ?
私が見たところ、お前は涙を
お前は涙を流しているようだな!」
どうして私が泣かずにおられましょう、御身 慈愛に満ちた神よ
私は十の戒めを踏みにじってしまいました!
ですから私はさまよいながら激しく泣くのです!
ああ 来てお慈悲を!
ああ 来てお慈悲を私にお与えください!
もしもお前が十の戒めを踏みにじったのならば
膝をついて神に祈るのだ!
神に祈るのだ ただ いかなる時も
そうすればお前は天上の喜びが得られるであろう!
天上の喜びは祝福された町
天上の喜び、それには限りがない
それには限りがない
天上の喜びはペトロに与えられた
イエスを通じて 万人を救いへといざなう!
                    訳は梅丘歌曲会館「詩と音楽」による

 第5楽章がペテロの悔恨に対して天使が語る歌であることを思うと,第6楽章は「赦し」なのだ。
 神による赦し。
そして,最後は,そこから立ち上がって未来を見る輝きで終わる。

さて,演奏。
最近の演奏ではだいたい同じようなテンポ設定だが,バーンスタインだけはウィーンフィルでもニューヨークフィルでもかなり遅いテンポになっている。旋律を追っていくのに息切れがするくらいだ。
また,各旋律をどのくらいレガートで演奏するかも少しずつ違っている。たとえば,弦には次のような個所がある。

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 スラーの中のテヌート記号,スラーのないテヌート記号,アクセントマークだ。
アクセントマークは一音ずつをマルカートで弾くのだが,短くはしない。レガートの中のマルカートという一見矛盾した表現がぴったり来るのではないだろうか。
問題は,スラーのないテヌートだ。このときの1音1音の扱いをどうするか。ほとんどレガートにするか,マルカート気味のレガートにするか。
特徴的なのが hr-Sinfonieorchester ∙Andrés Orozco-Estrada の演奏。アクセントマークの音をかなり強調している。それだけ彫りが深くなるのだ。単なるテヌートのところもマルカート気味にしている個所もある。
 一方で,スラーなのかテヌートなのかよくわからない演奏もある。
比べどころのひとつではないだろうか。

 また,各楽器間のバランスも聞き所。
次の箇所は,ホルンがテーマの音型を吹いているのだが,ここをはっきり聴かせる演奏と,さりげなく弦の背景で聴かせる演奏がある。もちろん,録音の問題もあるだろうから,生演奏でどう聞こえるかはまた別問題だが,はっきり聴かせ,なおかつ映像としてホルンを大写しにしているのは,アバド・ルツェルンの演奏だ。第6楽章は1時間13分のあたりから。

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Youtubeには第6楽章だけのものもある。ノイマン・チェコフィルの演奏は,テンポが少し速めだがくせのない,聴きやすい演奏だ。

かくしておよそ20分間。好みの演奏を探し,安らぎのときに身を置くのもいいだろう。