自分のやりたい事の集大成(前編)
この記事は完全に自己満の記事で、読んだところで僕以外の人の為になるような事は書いてない自負があります。
なので、読むという方はただのエンタメとして読んでもらえたらと思います。
この記事は、自分のやりたい事を見つけるまでに至った自分の半生を面白おかしく綴っています。
自分が最終的に何をやりたいかを考えていた
自分は、大学に入学する時に自分が何をしたら一生を暇を感じずに過ごせるかを考えていました。
高校時代まで、その場その場で楽しんで過ごしていた自分にとって、これからの人生の先を考えるなんてこと、正直なかなか想像できなかったのです。
今から考えればありえないかもしれないですが、やりたい事はあるけどなかなか行動に移す事ができない人間でした。
諸説では、地元の風土が自分に合ってなかったのではないかという説が自分の中で浮上していますが、それは神のみぞ知る。
と言う事で、いざ大学という場所は地元以外の場所に行く事になりました。
そして大学で何を学ぶかを考えました。
自分はその時は漠然と生きていくのに苦労しないスキルが身につけばいいなぁなんて漠然と考えていました。
何をやりたいかというより、何をすれば生き長らえられるかを考えていた訳ですね。
そこで浮き上がるスキルが、英語でした。
しかし、これには一つ理由があって、自分が英語を勉強始めたのはある英語の塾で論理的に英語を読むという事を知ったおかげでした。(決して、初恋の人が海外に行って英語ペラペラになってるから同じステージに立ちたいと思った訳ではないです。決して)
これまで論理的に物事を考えて勉強した事がなかった自分にとって、論理的に考えて答えを導き出す英語は新鮮なもので、自分が賢くなったように錯覚させてくれたのが理由の一つになります。
他にも理由はありますが、一旦割愛させて頂いて、そんなこんなで大学で英語に関わるものを学ぶ事に決めた自分は英語学科に入学しました。
その時はまだ、自分の中で本当にやりたい事は見えてないですが、漠然と人の役に立ちたいくらいのイメージは持ってた気がします。
そして大学で英語で授業を受けてる間に、英語の響きに魅了され、どんどん英語にのめり込んで行きました。
1日5時間単語を覚えたり、毎日最低2時間音読したり、多読も学校の課題以外にひたすら読み進めていました。
そうして、自分の中で積もっていくものを感じる事が楽しかったんですね。
3年生になる頃、とうとうやりたい事が分かった気がしました。
僕は通訳になりたいんだ。
その事に気付いたのが、自分のやりたい事への意識が働いた一歩目でした。
挫折
やりたい事を見つけた直後にいきなり挫折かよって思った方もいるかもしれません。
しかし、これは挫折します。
語学を舐め切っていたと言ってもいいでしょう。
通訳の授業をとっても、自分で通訳の練習をしていても、全くうまくできないどころか、聞いても聞いても理解ができない自分がいました。
このままではいけない。
そう思った自分は、留学を決意しました。
大学4年になると同時に留学に出ました。専攻はもちろん通訳でした。
しかし、留学先でもやはり通訳ができない。
大学の英語で授業受けてる時も、普通に街の中で話をするのもある程度できていましたが、通訳になると途端に理解が追いつかなくなる。
多分、かなり前後の文脈に頼って会話してたんだと思います。
そんなこんなで半年の留学を経て帰国しましたが、通訳のスキルは身についたとは言えませんでした。
大学4年にもなり、周りは就活も終え、最後の学校生活を送ってる中
自分は就活をしながら、卒業後の生活に怯えていました。
このままよく分からない会社で、よく分からない仕事をして、通訳になろうと頑張ってきた自分は無駄に終わってしまうのか…?
そう考えるとひたすら恐怖でした。
しかし、幸運にもある企業に社内通訳として採用されました。
なのですが、その時の最大風速最高速度に頭の悪さを発揮した当時の僕はその内定を蹴りました。
理由は単純で、その会社の扱う製品に全く興味を持てなかったからでした。
そこで初めて、自分はただ通訳がやりたいんじゃなくて、ちゃんと興味のあるものに関わった上で通訳をやりたいのだと気づきました。
しかしこの時点では、何に興味があるか分かっていません。
もう本当にバカですよね。
分かってないのに、とりあえず内定蹴るという愚行に出た僕は、さらに自分に追い討ちをかけます。
通訳学校に通って、スキルを高めようと考えるのです。
この時、もう2月とか3月だった気がします。つまり、卒業式も間近に迫り、みんなが浮かれている時期に、自分は就活をしながら通訳学校への道を考えていました。
気持ちは分からなくもないですが、今から考えるとあまりにもバカでした。
しかし、通訳学校に入る為のテストを受けて驚愕しました。
全く歯が立たない自分がいて、通訳力が全くない事で完全に自信を無くしていました。
ちなみに参考として、当時のその時の英語力としては、TOEICでは800点後半、英検の準一級は特に対策なしで合格するレベルでした。(一級はそれなりに対策したのですが不合格でした…)
そのテストによって自信を完全に失った僕に、魔のフリーター時代が到来します。
魔のフリーター時代
卒業だけはしたが、就職が決まっていなかった僕は地元に戻る事になりました。
しかし冒頭でも書いた通り、地元は僕にとってはディストピア。
…ディストピアは少し言い過ぎました。
地元は心を休める場所であり、就活に向けて魂を燃やすには最適な場所ではありませんでした。
それでも少しでも進めなくては腐ってしまうという事で、フリーターとして働きながら地元外へ向けて就活を続けていました。
バイトがない時は英語の勉強したり、ゲームしたりとかなり低辺感があったのを覚えています。
そんな感じの日々が続いて半年が経ったくらいのある日、某IT会社に通訳として内定が出ました。
地元が出れると言うのと同時に、まだ自分に通訳としてのチャンスがもらえた事が嬉しかったです。
そして何よりITには少し興味がありました。
パソコンで仕事をするという事に憧れていたからでした。
小説家を目指していた中学、高校時代も、パソコンでひたすら小説を書いたりしていたので、パソコンで何かを作るというのに興味は少なからずあったのだと思います。
そして、僕は魔のフリーター時代を抜け、地元を離れました。
ようやく見つけるやりたい事
ITに興味があったとは言っても、正直何をしてるのか、何をするのか全く想像もできていない感じでした。
学生の時の就活中もIT企業を受けていた事はありました。
しかし、そこで聞かれる質問に関しても全く理解ができず、面接官に「なんでこの子は、この技術力でここにいるんだ?」という目で見られたのを覚えています。
なので、これからやる事に心を踊らせながら、入社日を迎えました。
僕の業務は、その会社のweb部門で開発をしているインド人エンジニア(一人)の専属通訳翻訳でした。
ええ、インド人のエンジニアでした。
そして、世の中は常にトリプルハードモードを強要してきます。
その会社には研修制度というものがなかったのです。
追い討ちをかけるように、そのインド人エンジニアも僕が入社し1ヶ月程で自国に戻り、そこで支社を作ると言う事になりました。
つまり、僕一人が日本に残され、専属になるはずのインド人エンジニアは帰国していったのです。
インド人エンジニアめ〜
研修もなく、途方に暮れながら、何かできる事を探していましたが、そもそも仕事が回ってこない。
そんな中、自分がこの会社で生き残るには技術を身につけるしかないと悟りました。
これは自分にとっては悪い事ではなく、パソコンで仕事をするという一歩目が進み出した事を意味していました。
ここではまだ自分のやりたい事として捉えていません。
ひたすら、生き残るためにはどうすればいいかを考え行きついたのが技術だったのです。
そしてそこから僕はHTMLとCSSを勉強し始めたのでした。
インド人エンジニアはというと、自国から僕に週1くらいで通話してきて、「ちょっと今忙しいから」と言って切っていくだけの存在でした。
自分から電話しといて、なんだったのでしょう。
そうは言っても、インド人エンジニアにはお世話になりました。
webページの改修などを少しお願いされたので、勉強していたHTMLとCSSを頑張ってツギハギに直していく過程で、僕がCSSで詰まるとインド人エンジニアはちょくちょく教えてくれたので助かりました。
ただ、普段はお昼などに談笑したりはしていましたが、やはり専門的な事になると全然分からなくなる。日本語だとどうなのか当時は分からなかったですが、恐らく日本語で同じ内容を話されても理解できなかった事でしょう。
データベース? サーバー? フレームワーク ? JSON?(13日の金曜日?)
みたいな状態だったので、彼らがどうやって作ろうとしているのかも分からなければ、それを伝えるのも正直厳しさを感じていました。
しかし、業務をこなしていっても、正直自分の中でスキルが高まっていく感覚はありませんでした。とりあえず、継ぎ接ぎのハリボテに応急処置で釘を打っていく感じで、自分の中で体系的なスキルが溜まっていく感覚がなかったのです。
自分でHTMLやCSS、Bootstrapの勉強をしていても、これで本当にできるようになるのか分からなかったので不安は募るばかり。
そこで調べ知ったのが「プログラミングスクール」の存在でした。
正直当時の仕事は、8時間フルでやるには全然足りない仕事量しかなかったのもあり、空いている時間でプログラミングスクールで学ぼうと考えました。(当時はできる事を増やす事で仕事を増やしてもらえると思い、プラスに考えていましたが、今から考えるとあまり良くない事ですね…)
そういう訳で、仕事の合間や業務後、土日をフルに使ってプログラミングスクールに通う(オンライン)事にしました。
もちろん、当時お金(スクール代: 約20万程)はなかったので、家族に頭を下げて借金しました。
絶対将来このスキルで返すという強い意志があったので、なんとか真剣に説得する事で貸してもらえました。
実際通い始めて、自分が何やってるか訳が分からないながらも頑張って食らいついていました。
通い始めて1週間くらいが経ち、当時HTMLとCSSは自分でやってた事もありすぐに終わらす事ができ、RoRを勉強始めたころ
ある事件が起こります。
「明日から来なくて良いよ」
ところで、みなさんは「明日から来なくて良いよ」って言われたことありますでしょうか。
多分言われた人はかなり少ないと思います。
そして、本当に次の日から行かなくなった人はいるでしょうか。
さらに少なくなると思います。
というのも、一応日本の法律上は30日前に解雇通知をしないといけないためです。
…僕は、当時すごく悩んでいました。
この仕事を続けても、正直やりがいも何もないし、何より自分のスキルも伸びないし、将来性もない。
技術を学び始めて、この技術があれば英語を付加価値にさらに飛躍できるのではないか。だったら、ここで手をこまねいてる場合ではないのではないか。
そう思った時、社長に相談したのです。
正直、その時の社長とは馬が合わないと思っていたのもあり、かなり気乗りのしない相談でしたが勇気を出して言葉を切りました。
「社長、今の仕事、正直自分に合ってるのか分からないところがあって…」
「だったら、明日から来なくて良いよ。お互い時間無駄にしたくないでしょ」
この言葉は正直、かなり衝撃でした。
正社員としては初めてで、これが普通なのか異常なのか、こんな簡単に辞めさせられるのか分からなかった自分は、その言葉を受け取り、そこで会話が終わるや否や、自席の荷物を整え持ち帰り、本当に次の日から出勤しなくなりました。ちなみに、この時の会社は半年で退職でした。
全然そんなすぐに辞めるつもりもなければ、次の準備なども全然できてない状態での退職だったので、会社への不信や怒りより、明日からどうやって生きて行こうという不安に駆られていました。
朝起きて、仕事に行く時間になっても家で虚空を眺めている自分がいました。
しかし、そうは言っても家賃は毎月かかるし、食べるにもお金がかかる。
年金やその他もろもろ払わないといけないのでお金は必ず必要。
虚空を眺めているだけでお金が入ればどれだけ良かったかと、夢物語を考えながらすぐに次の行動に移しました。
いよいよ自分の道に気づき始める
お待たせしました。
ここからが、この記事の本題に入っていきます。
長い長い前書きにお付き合いくださりあr(略
さて、次に起こした行動とは
・ハローワークに行く
・失業保険をもらえるようにする
・スキルを身につける
この三つを柱に行動に移しました。
しかし、2つ目の失業保険に関しては勤務半年ではもらえない事が分かりました。しかしお金は必要なので、なんとかならないか聞いたところ、職業訓練というハローワーク(国)が提供するプログラムに参加して、就職を目指すためのスキルを磨くことで国からその期間の保証金として給付がもらえる事を知りました。
早速ハローワークでそのプログラムがどんなのがあるかを聞いて、手続きに取り掛かりました。
もちろん、プログラミングスクールにも参加していて、同時並行で仕事探しもしていました。できれば、職業訓練には行かずに就職できればそれが一番でした。
しかし、そううまく事は進まず、いくつか受けた書類はボロボロに落とされ、面接まで取り付けても1次面接で落とされ、すぐの就職は諦めざるを得ませんでした。今から考えてもかなり甘い考えだと思いますし、自分が面接官だとしても、スクールで勉強して1ヶ月くらいの人を採用なんてリスキーな事は多分よっぽどじゃない限りしないと思います。
そんな時に見つけた職業訓練で、プログラム群の中に「Androidアプリプログラマー養成」という文字を見ました。
当時の自分はwebプログラマーとAndroidアプリプログラマーも分からないですし、iOSのプログラマーなんてのもいるなんて言葉すら知らなかった訳ですが
プログラムが書けるようになるためのプログラムなら参加しない訳がない!
という短絡的な考えで飛びつきました。
プログラマーという職業が今自分が目指すべき目標になっていて、英語だけでは生きていけない事を痛感した(英語も完璧ではないが…)ことで他のスキルとしてプログラマーがとうとう見え隠れしだすのもこの辺りでした。
手続きは多少面倒でしたがなんとか済ませ、いざ次の月からのプログラムに滑り込みで参加させてもらえるようになりました。(章類審査や、職業訓練プログラムに参加するための面接も何回か行いました)
そのプログラムは3ヶ月行うもので、一旦3ヶ月分の給付をもらえるようになったこと。プログラムを書く勉強の場ができた事に一時ホッとしたのを覚えています。
そんな状況で、職業訓練が始まるまでの残りの1ヶ月をスクールで勉強し、スクール卒業と同時に職業訓練に入るようにしました。
(ちなみに、メンターさんから当時スクールに同時期に入った人の中で優秀賞を頂き、1ヶ月無料で別のコースも受けれる権利というのをもらいましたが、職業訓練に集中したかったのもあり使いませんでした。)
これまでRoRでweb開発を勉強してた人が唐突にAndroidの開発とか関連性があまりない!と今ならかなり考えるところではありますが、当時は藁にもすがる思いで、できる事はなんでもやって実績として作らないと就職できないと思っていたので、なりふり構わず参加を決めました。
プログラミング本を音読!?
晴れて職業訓練が始まりました。
心躍らせながら学校に向かう自分。ここから3ヶ月、自分に磨きをかけにかけ、無事プログラマーとして就職する自分を想像し、目を輝かせながら入学を待つ20代後半(独身)男性。
側から見れば相当気持ちの悪いものだと思います。
気にしたら負けの精神で言われるがままに着席する。
しかし、いざ周りを見渡すと意外と年齢層が高い事に驚く。
なんだったら自分が下から2番目の若さを誇っていました。
上は普通に50歳以上の方とかもいて、ここから就職を目指してるのか…?と少し不思議に思いましたが、彼らは決して「必死」に就職を目指してる訳じゃなく、遊び感覚でAndroid開発を趣味にやってみたい〜みたいな気持ちで来ているらしいということを後から知りました。
本当に就職を目指し、そこでスキルを高めようと考えてる人は、僕を含め5,6/30人くらいしかいない感じでした。
しかし、そんなことはどうでも良く、自分がスキルを身につけ就職できればそれで良い。周りが必死かどうかなんてのは気にしたら負けなんだ!という気持ちで自分を奮い起こしていました。
さて、いよいよ始まる授業ですが、どんな授業になるのかなと期待と不安を持ちながら、配られた本に目を落とす。
「スッキリ分かる Java」、「はじめてのAndroidアプリ」
この2冊を3ヶ月かけてやるのか…?
本気でやれば1ヶ月で終わりそうだが…
そして先生が入ってきて、簡単な自己紹介を全員がやった後、午後から授業が始まる。
先生「じゃ、まずスッキリ分かる Javaを1ヶ月かけて読んでいきましょう」
読む?1ヶ月?どういうことだ?
すると先生はまた不思議な事を言い出した。
先生「じゃ、右前の人から1フレーズずつ音読してもらい、その後にそのコード書きましょうか」
お、音読だと!? プログラムを紙に書かせるコーディング試験をする企業には出会った事あるが、プログラムを音読させる学校があるのか!?
困惑しながらもそういうルールになってしまい、従わなかったり欠席すると給付金がもらえなくなるので従う事に。
そこから1ヶ月音読大会が始まりました。
毎日毎日、右前の人から順番に1パラグラフずつ読んでいく。
そしてそれが終わったら目の前のThink PadでEclipseを開いて、Javaのコードを書き実行する。
側から見ると、人間が口々に「ふぁんくしょん、かっこ、いこーる、かっことじる、あれこのスペルなんて読むんでしょう?」とか言ってるのを見ると奇怪な光景だったんじゃないかなと思います。
もちろん、基本的なプログラムの概要は一通り書いてあるので、Classであったり継承であったり、プロパティや関数の説明などもされるのですが
正直本を読んでも、先生の解説があってもなかなか自分に入ってこない。
クラスの中で唯一、以前組み込みプログラマーの仕事をしていた人がいたので、その人だけが理解し、その人にちょくちょく聞きに行って補填していました。
本の内容を10分の3くらいしか理解していない状態で1ヶ月Javaの勉強をした後
いよいよAndroidの開発に入っていきました。
次の1ヶ月、やっと物を作り始める!
期待にワクワクが高まってきた僕らに先生が突きつけた言葉は
「じゃ、次週から初めてのAndroidの方を音読していきましょうか」
音読地獄はまだ続くのか…。
「くらす、XXX(クラス名)、かっこ」
次の週もプログラムを読む(声に出して)ことになりました。
いよいよAndroidアプリ作成へ
2ヶ月目も音読が終わり、最終3ヶ月目。
いよいよ自分のアプリを作成する段階に入りました。
自分は何を作ろうかなーと考えた時、偶然MicrosoftのAzureに翻訳APIがあるというのを発見しました。
そうだ、翻訳アプリを作ろう。
そう考えた僕は日本語を入力すると英語に変えてくれるアプリを作る事にしました。
Azureに登録して、作り始めたまではいいのですが、 どうしてもアプリ内からそのAPIを叩く事ができず、web viewを使ってHTML内で翻訳をするページを表示させ、出てきた結果をAndroidの端末に保存して、一覧として見れるようにした記憶があります。
単純なアプリだったのですが当時の自分にはすごい大変で、クラスの中でも割と出来がいいアプリだったみたいで、少しだけ評価を受けました。
3ヶ月の集大成として、次の受講者達の前で作ったアプリを紹介したりしたのですが、やはり次の受講者達も初めてのAndroidという事で、おぉーという声が聞こえてくるのは割と気持ちのいいものでした笑
そんな感じで3ヶ月、Androidの開発のためにいろいろと学んできたのですが
理解度で言えばほとんど変わらなかったと思います。
今はもうAndroidについての知識とかすっかり抜けてしまっていますが、今から勉強始めても、恐らく2週間で網羅できるくらいの知識だったと思います。(Javaに関しては他のプログラミング言語触っているので、少し言語仕様とかを勉強する必要があるくらいで概念的なところは理解できていること前提)
それでも、自分が作ったアプリというのは嬉しいものでしたし、それを当時安く買ったAndroid端末に入れて実行した時の喜びは、やはりWebだろうとAndroidだろうと変わらないなぁというのを感じます。
RoRを学んでいた時も一応作ったものをいくつかありましたが、正直理解して作ったというよりはコピペと引用で作った感があったので、MVCもろくに理解していない状態で書いていたので、できたものを見てもそこまで感動はなかったのですが
今回のAndroidアプリに関しては1から自分で考えて、プログラムも一部コピペしたものの、ほぼスクラッチで書いていたのですごい楽しく、充実したものに感じました。
ここで初めて、プログラミングが自分に向いているのではないかというのを感じ始めました。
これまではただのスキルとしてのプログラミングと考えていたのですが、書いていて普通に楽しいのと、できたものを見た時の達成感や嬉しさ、喜びを感じた瞬間に、プログラマーとして働く事で仕事を通してこれを実感できることへの気づきへと変化しました。
ここから本格的にプログラマーとして働く事を決意します。
職業訓練はいいが、就活はどうした?
職業訓練はひたすら勉強し、プログラムを書いてきましたが
いやお前、就活はどうしてるんや? 訓練終わったら仕事始めないとまたお金無くなるで?
と思われた方もいるかもしれません。
任せてください。抜かりはありません。
3ヶ月目、つまり自作アプリを作る傍らに就活もちゃんと行っていました。
しかも3ヶ月目に入ったすぐあたりで就職先も見つかりました。
しかし、これからいよいよ本格的なアプリ作成というのを目の前に「就職決まったので辞めまーす!」なんていう美味しいとこのみ逃しはしたくなかったので、切りのいい次の月からにしてもらい、1ヶ月アプリ作りさせてもらったという事でした。
ちなみに、少し余談になるのですが、就活関連で別の仕事(バイト)もしていました。
職業訓練で給付金をもらっていたのですが、それだけで生活できるほど多くはもらえていませんでした。
せいぜい住むところの確保と、少しの食べ物が買えるくらいの金額だったので同時にバイトも少しやっていました。
1ヶ月に稼ぐ金額が規定より超えなければ、給付金をもらながらバイトもしても良いということだったので、規定額に収まるように調整してもらえるところで翻訳のバイトを始めていました。
仕事をクビになってから始めたので、4ヶ月程やっていたと思います。
そこでは、ソシャゲ(某人気のカードゲーム)の海外ユーザーの声を翻訳したり、意見を翻訳し取り入れたり、クレームメールやバグ報告メールの翻訳などを開発者に送ったり、英訳して返信するという仕事でした。
それで規定内の金額を稼いでいた事もあり、なんとか給付金と合わせて生活はできていました。
訓練が終われば最低限のバイト、土日も最低限のバイト、みたいな中でブログとかも書き始めたりと、ニートの分際でいろいろと忙しい日々を送っていたのを覚えています。ニートの分際で。
初のプログラマー!?
晴れて職業訓練校を卒業した僕は、とうとうプログラマーへの道を進める。
と、思っていました。
就職を決めたのは決めたのですが、そこではプログラマーとしてではありませんでした。
僕はいまいちイメージは湧いていなかったのですが、Web業界というのは広いもので、いろんな業種がいます。
それこそ、システムをWeb上で作る、システム会社のエンジニアであったり、Webサイトのデザインを作るデザイナーであったり、Webサイトのアクセス数などを見込むマーケターであったり、Webサイトを作るクリエイターであったり…。
その中でプログラムを書く人というのはごく一部の職種になるのです。
僕はプログラムを書きたかったです。
そして、プログラマーになるためにプログラミングスクールにも通いましたし、職業訓練校でJavaの本を音どk…Javaを書いていました。
そしてようやく手に入れた職…、当然僕はプログラマーになる、つまりプログラムを書くと思っていたのです。
ところがどっこい、入社してやっていた事といえば、Webサイトを作っていました。
そう、デザインからWebサイトを構築する仕事だったのです。
この事自体は、最低限HTMLとCSSができればできる仕事で、必要に応じてjQueryやWordPressなどのプログラムを少々書く、といったような仕事でした。
当時の自分は、プログラムを書いて仕事をするという事についてイメージがなかったので、ひたすらにWebサイトを作っていました。
HTMLを書き、CSS(SCSS)を書き、WordPressを導入し、jQueryで少しだけ動きをつける。
そんなサイトを何十個と作っていました。(十何個だったかも?)
そして、ある時ふと魔法の言葉を聞くのです。
「PHPのフレームワーク、Laravelが最近流行っているらしいよ」
フレームワーク? Laravel? なんだそれは?
そしてある日、調べてみました。
どうも、かつてスクールで勉強していたRoRのようなものがPHPにもあると言うではないですか!
正直、Rubyは手に馴染まなかったのでRoRはもうやりたくないと考えていて、PHPはまだ分かりやすいなという印象があったので、早速入門書を購入しチュートリアルをやってみました。
しかし、書き始めて少しして気付きました。
今まで自分がやってきたPHPではない…。
というより、WordPressが特殊すぎたのである。
WordPressと自社環境PHPしか触っていなかった自分にとって、Laravelのコートは摩訶不思議でした。
ザックリと分かりやすく言うと、同じ猫でも野良猫と飼い猫で全然動きが異なってくるような感じでした。
HTMLもCSSもほとんど出てこない世界に入ったのは初めてでした。
これでどうやってWebサイトができているんだ…?
この時、自分の中ではワクワクが止まりませんでした。
この時に初めて、自分がやりたかった仕事はこういったプログラムだけの世界で生きていきたいのだ。と言う事に気付きました。
ここら辺で自分の進むべき道が確定していきます。
プログラムを書いて仕事をする道を歩みたい。そういう思いが沸々と湧いてきて、抑えきれなくなった時
仕事を辞めた(唐突)
僕はプログラマーではなかったのだ。という事実に衝撃が凄かったのを覚えています。
仕事を辞める前に、当時東京で働いていた訳ではなかったので、転職と同時に上京を考え、Twitterで転職活動中の事を言いました。
すると、何人かの人からDMを頂きました。
そして、何人かとカジュアル面談的な感じで話をしてみると
なんと、ものの10分で内定を頂ける企業がありました。
当時の僕は一刻も早く上京し、プログラマーとして一歩を歩みたかったのもあり、即答でその企業に入社を決めました。
そこからやりたい事探し(東京編)が始まります。
ここまででやりたい事として、プログラマーになるというのが自分の直近の目標になっていました。
後編続く…。
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