『新渡道中膝栗毛 あるいは少女悪人掃討紀行』第一話
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故郷の新渡県にてフィールドワークしつつ、修士論文用のネタを探していた静海は、いま100年前の故郷のほとりにいる。場所は実家がある新渡市の旧中尾地区の外れだ。なぜわかるのかというと、郷土史に載っていた写真そのままの風景だからだ。
湿地とはつまるところ、泥で覆われただけの湖に過ぎないことを静海は悟った。遠くには樹木が数本立っており、他は平原である。ぬるい風が吹いていく。掘っ立て小屋が見えたが、休憩中の男たちが賭博に興じていた。というか、その掘っ立て小屋に出現した静海は、死ぬ思いで飛び出してきたのだ。具体的には、汗臭い男たちが半裸でサイコロ遊びをしていた。
「大変なことになった……」と静海はひとりごちた。覚えているのは、実家近くの共用区域でドローンを飛ばして遊んでいたら、郊外に見慣れない林と井戸を見つけたことだ。静海は高校生まで旧中尾地区に住んでいたが、こんな井戸など見た覚えがなかった。ということで散策してみたら、井戸から手が伸びてきて彼女を引きずり込んだ。後は掘っ立て小屋だ。
途方に暮れてスマホを開く。電波こそ届いていないが、データベースには〈今日:大正15年(1926年)4月7日 晴 NEWS:八木・宇田アンテナが実用化の見通し ポイント:正岡子規は健啖家〉と表示されている。データベースは歴史マニアの静海が自作して、スマホに流し込んだものだ。他、メモ帳や電卓は起動するし動く。だが連絡アプリやSNSは駄目そうだ。もう少しギリギリのところも攻めてみたいが、よく考えたらこの世界にスマホは手元の一台しかない。壊れたら取り返しがつかないので、考え直した。
つまり、西暦で数えても和暦で数えても一世紀前の故郷に静海は座っていることになる。そして困ったことに現実だ。
大変なことになった、と再びつぶやいたら、「おい!」と後ろから甲高い声で呼ばれた。「ボサッとしてンな! 畑手伝え! どこン家の子だ!」
「ひゃあああごめんなさい!」と静海は謝ってから、声の主が女の子だということに気づく。年は中学生ぐらいで、背丈は百五十いくかいかないか。静海より少し小さいぐらい。バストはなかなかの発育だ。ジロジロ見られた女の子が静海を下から睨みあげる。かわいい。
「ンだよ」
「あの、立川……じゃなくて、黒河シズさんですか?」怪訝そうに彼女は頷いた。「あの、わたし立川静海です。ちょっと名字違うけど、あなたの孫です! おっぱいの下にホクロあるんでしょ!」
立川シズは静海の祖母である。旧姓は黒河。確か結婚したのはもう少し先なので、彼女の名字はまだ黒河の筈だ。明治生まれのシズは百歳を超えているがピンピンしていて、今朝も出かける静海におにぎりを出してくれた。趣味は座禅と昼寝と将棋。
「ばっ」とシズが発育のいい胸元を隠した。「お前、どこで覗いた! 女湯か! 根性叩き直してやる、こっち来い!」「ひゃあああ!」
結局静海は黒河家の畑に連れて行かれて、一日中農作業を手伝わされた。
夜。重労働の疲れで静海が家の隅っこでウトウトしていると(結局家がない静海は黒河家に泊めてもらった)、「おい、おっぱい」とシズが声をかけた。まさかと思うが自分のことらしい。「お前、本当に俺の孫なのか」
静海は頷いた。シズはため息をつく。
「意味わからんが、まあいい。じゃあ俺はずっとここで暮らしているのか? 田んぼは?」
「田んぼは、お父さんがやっています。わたしは大学院で……あ、論文です」静海はカバンから本を取り出す。おとう……? とぶつぶついっていたシズだが、本を受け取った。
「ふむ。学者か」シズはいってから本をめくり、何ページか目をさまよわせ、閉じる。
デジャヴュを感じる。というか、里帰りした時に現代のシズも同じ反応をしていた。
「読めん。理解できん。なんだこの……ファクトとか、エビデンスってのは。あと、なんで英語が書いてある」
「そりゃ、論文ですから……アメリカ人とか、中国人の研究者も論文読むかもしれないでしょ? 共通ルールとしていちおう書いておかないといけないんですよ」
「書く……英語書けるのか!? こんなに!」シズが目を見開いた。「東京の学者は凄いな……東京お抱えの学者なんだろう。ところで、お前は帝国大学に通ってるのか?」
「名前が違うんですが……まあ、東京っちゃ東京ですね」
「なるほど。やはり一番上の学校は水準が高いな」とシズは考え込み、静海はまたしてもデジャヴュを感じる。三日前の会話と同じだ。しかしあの時は特に話が発展しなかったが……。「連れていってくれ」
「へっ?」
「俺は新渡県から出たことがない。実のところ、田植えには飽きていたんだ。一度でいいからモダンな食堂、本屋、学校に行きたい。それでおっぱいはチャラにしてやる。連れていってくれ!」
【続く】
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