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『モンテーニュ逍遙』第1章

第一章 《ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず》

(pp.41-59)

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

鴨長明『方丈記』

  • キリスト教の自然観、ルネサンス時代のユマニストたちにみられた自然観

  • モンテーニュの自然観、モンテーニュの根本思想

  • (補足)アルベール・カミュのキリスト教観との対比


(本章から)

物心ついてから最後の日に至るまで一貫して変わらなかったという、彼の根本思想とは、一体どのようなものであったのか。それは理解しがたいメコネサーブル(mésconnaisable) ものでも捕捉し難いアンセジサーブル(insaisissable) ものでもない。ただそれは、〈脱ヨーロッパ的〉思想であり、抽象を排する詩的哲学であったというだけでなのである。(p.45)


そしてその中に、早くもこの人間の浮動性、人間の不恒常性アンコンスタンス(inconstance) ・浮動性オンドワイアンス(ondoyance) が取り上げられていることを知れば、モンテーニュの根本思想が、彼自ら《それはわたしと共に生まれた》と言っているとおり、きわめて若い頃にその端を発していることを認めざるを得ないのである。(p.50)

まったくわたしのもつ最も堅固な思想、私の根本思想は、いわばわたしと一緒に生れ出たのである。それらは生れつきのもの・全くわたしのもの・である。

『随想録』「自惚れについて」(II・17・776)


モンテーニュにとって、はかなく虚しく移り変わって少時しばらくもとどまることがないのは、人間ばかりではない。宇宙のあらゆる物事がそのようにあるのであるから、そこには悲観もなければ自棄もない。彼はきわめておおらかにこの必然を受け止める。(p.51)


《あたかも一面の絵画の中に見るように、その心の中に、我々の母たる自然がその荘厳の相を完全に現した偉大なお姿を、まざまざと想いうかべる人、そのお顔の上にかくも普遍的恒常的な変化を読みとる人、その変化のなかに、ただ自分だけでなく、王国全体をも、きわめて細い針の一突きほどに見て取る人、そういう人であってこそ、はじめて物事をその正しい大きさにおいて測り知るのである。》(p.52)

  • 『随想録』「子供の教育について」(I・26・216)より


西欧の学者によって、モンテーニュと荘子とのみにとどまらず、宣長とのパラレルもなされる日を期待する。それは東西の二大思想家に対する解釈に資することが多大であろう。(p.55)


まったくモンテーニュにあっても、その知恵は書籍的知識によって構築されたのではなく、やはり実生活の体験の中に自然に感得されたものがその源泉となっているのであって、諸子百家の説のごときは、たまたま彼の若い頃からの思想を、随時随所に支持し立証したにすぎないと考える方がよかろう。 (p.56)

  • 諸子百家 ... おおよそ古代ギリシャ・ローマ時代の哲学者たちのこと。モンテーニュがソクラテスやプラトンを敬愛し、プルタルコスやセネカ、ルクレティウスを愛読し、セクストス・エンペイリコスをとおしてピュロン主義(懐疑主義)の思想を強めたとしても、そして、それらの書籍を通じてある程度源泉らしきところまで遡ることが可能だとしても、そういった書籍的知識の分析のみに終始していては、モンテーニュの「本性」は決してつかめない、というのが著者の主張であろう。


読書も執筆も瞑想も、消化や排泄と同様に、彼にとっては平凡普通な日常茶飯事なのである。(p.57)


モンテーニュとキリスト教との関係は、アルベール・カミュの場合と対比してみると、かなりよくわかると思う。(...) (pp.58-59)

  • 参照文献(Jean Grenier, «Albert Camus (souvenirs)»)の邦訳:ジャン・グルニエ『アルベール・カミュ : 思い出すままに』大久保敏彦訳(国文社)



  • 関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)

  • 関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)

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