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闇の中のジュリエット

 読み返すたびに違う味がじゅわっと滲み出てくるのが名作というものであるわけだが、先般、訳あって古典の名作シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(平井正穂訳)を久し振りに読み、またあらたな味わいに酔いしれるとともに、400年の時を経てなお現在に重く問いかけてくる問題に思いを馳せる機会があったので、読書感想文的に書き残しておこうと思う。

     * * *

 ロミオとジュリエットの恋は、暗闇の中で進んでいく。夜の舞踏会で出会い、その深夜にバルコニーで愛を告白し合い、ロレンス神父の立ち会いの元での結婚式は午後であったが、秘密裏のことなので教会から出ることはなく、初夜となる翌日の逢瀬も夜、そして最後は夜の納骨堂だ。
 若い二人が大きな障害の前に命を散らす、純愛悲恋ものとして名高い戯曲だが、その恋のシーンがいつも闇の中なのは何故なのだろう。14歳のジュリエットの可憐で無垢な美しさは、陽光の下でこそ最も強く輝くはずなのに、そんな彼女をロミオが見ることは、ついに一度もない。

 対象的に、モンタギュー家とキャピュレット家の男たちが、街中で公然と決闘を繰り返す躍動的な場面は日中だ。ジュリエットの父親が、娘の気持ちを一切慮ることなく縁談を進めていくのもまた、昼間のできごとである。

 そういう目で見ると、『ロミオとジュリエット』は、男たちが昼間自由に世の中を回している社会と、その中で少女が思い通りに羽ばたけるのは闇の中だけ、という現実を描いているように思えてくる。

 昨年、12歳の少女がSNSで知り合った男に6日間監禁されていたという事件が報道され、話題になった。似たような事件は他にも複数起きており、SNSの悪用に対する懸念とともに、何故少女たちが安易に見知らぬ大人の男の誘いに乗ってしまうのか、好奇の眼差しも向けられた。
 彼女たちの詳しい事情は知らないが、わたし自身がその年齢の頃に感じていた息苦しさを思い出すと、もしもあのときSNSがあったとしたら、わたしも同じ被害に遭っていないとは言い切れない。それほど、大人になる境目に爪先がさしかかったあの頃、正体のわからぬ「何か」にぎゅうぎゅうと締め上げられるような窮屈さを、常に感じていた。家、学校、友達、そうしたものたちがその「何か」であるような気もして、どこか自分を知る人のいない場所へ行きたいという願望に駆られ続けていた。

 あのときのわたしという少女を重ねると、ジュリエットは本当にロミオに恋をしていたのか、もしかしたら、自分の意志が通らない窒息しそうな生活から逃れるために、恋を、ロミオを、無意識に道具として使ったのではないか、と考えたくなってくる。そもそも、ロミオがジュリエットに寄せた心も、純粋な恋ではなく、失恋の痛手を癒すための代替の恋心だったのだ。恋に最も敏感な少女が、それに気づかぬはずはない。
 そう考えると、彼女が父親を代表とする昼間の世界に背を向け、闇の中だけで生き生きと自己表現したことにも納得できる。そしてもう一方で、シェイクスピアの時代から400年以上経った今でも、少女たちが同じ閉塞感を抱え続けていることに、暗澹とした気持ちにもなる。

 二人の命が果てたあとの最終幕、ロミオとジュリエットの両親は真実を知って反省し、敵対を解き、哀れな恋人たちの金の像を作って並べ置いてやると誓う。かつて感動していたのがまったく信じられない、虚しさだけが残る終焉だ。
 今もなお、世界のあちこちで、少女の像は作られ続けている。(了)

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