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UターンIターンビーイング

ときは西暦2000年前後、リクルートが『UターンIターンビーイング』という求人雑誌を発行していた。まだインターネットによる情報提供が充実しておらず、『Be-ing』の臨時増刊として全国から集められたユニークな求人が掲載されていて、海外から帰ってきたバックパッカー気質の私は『地球の歩き方』を読むようなワクワクとした感慨を覚えたものである。

私には、①僻地で②儲からない、③アナログな仕事に惹かれてしまう傾向があり、それでいて④やりがい搾取をされたくないという意識が強いものだから、実力もないくせに厄介な迷宮にありて汲々としていた。

とにかく金を稼がなければ破綻する。私はユースホステルの住み込みバイトを始めたが、厨房でミスをした際(目玉焼きを皿のどこに置くかといったことだったと記憶している)年下の先輩に包丁を向けられ、迷わず3日で辞めた。

『UターンIターンビーイング』で応募した会社から面接に来てくれと連絡が来た。沖縄の離島で、往復の航空運賃と宿泊は先方持ちである。空港で社長ジュニアの出迎えを受けると、私以外にも二人の候補者が県内外から来ていた。私は職場を案内され新規事業の説明を受け、夜になり、居酒屋に連れていかれるとそこに年配のおっさん、社長が待っていた。

オリオンビールと泡盛をしこたま飲まされ、歓談し、社長は帰っていった。それが面接だったのである。店には会社の社員二人が偶然来ていて一緒に飲み始めた。彼らは新たなゴルフ場建設の是非をめぐって熱弁をふるっていた。

二人とも地元の若者で、ひとりはどうみても白人の血が入っている。「ハーフですか」と訊くと、先祖代々生粋の地元民だという。「いやいや御冗談を」と笑っていると、ジュニアが耳元で囁く。江戸時代に黒船でペリーが来航したとき、彼らは琉球に上陸した。その時交わった子孫に遺伝子が残っていて、今でも時々出てくるんですよ。

後に会社から採用を受けながら私は反故にした。

同時に私は木工の職業訓練校を受験していた。中部地方の家具製造で知られる街にある。

試験を受けに行き、学校の事務職員と話をしたのだが、「卒業生の9割は職人として残らない。やめておいた方がいい」と囁かれた。独立している卒業生を紹介してほしいと頼むと、ひとりの若い職人と会わせてくれた。彼は言う。卒業してどこかに修行に出てはいけない。いきなり独立しなさい。

この職業訓練校から合格通知をいただいたが、私は反故にした。採寸して注文していた作業服がのちに自宅に届いた。学校名と氏名が綺麗に刺繍されていた。

同時に私は紹介を受けて種苗会社に応募していた。近畿地方にある会社に呼ばれて訪問すると、社長とその奥さんが待っていた。事務所の玄関でスリッパに履き替える会社には注意しろ。どこで聞き覚えたのかわからない情報が脳裏に錯綜した。

社長が言う。会社のトップに立とうというぐらいの気概を持っている人に来てもらいたい。奥さんが言う。代々親族で継いできた会社でこれからもそうなんだから、期待を持たせるようなことを言ってはいけない。

後に社長から採用の電話をいただいたが、その場で丁重にお断りした。

同時に私は山深い地方にある酒造会社に応募していた。求人を出していないのにメールを送り付け、社長と面談し、先の会社や訓練校と天秤にかけ、入社することに決めた。

居候していた実家の母は「お父さんとふたりきりは無理なの」と言った。「ここは俺の家ではない」と言い捨てて私は去った。

職種も土地も脈略のない、自由を希求しながら焦燥に駆られて30代に差し掛かる男が新しい生き方などと模索する一方で自らの市場価値を勝手に推し量って落胆し、世の中は消去法で生きる隙間さえも許さないのかと抗い吠える物語はその後も続き、履歴書と職務経歴書、課題の作文、送り状が病的なまでに溜まりつづけたUSBが一本、支配から逃れようと足掻あがきながらおもねった刻印として私の手元に転がっている。

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