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失笑したけど腑に落ちた「歌を歌うこと」

「二日前さ、あの...めちゃくちゃケンカした後。あっちの部屋で何歌ってたの?実は聴いてた。あれさ、本当に良かったよ。 何歌ってるかわからなかったけど、凄く響いた。今までで一番良かった。きっとその前の事で感情が入ったんだと思うんだけど...(笑」

というニュアンスのことをドイツ人夫に片言の日本語で言われ、失笑。

8月に教会関係の歌唱奉仕でソプラノを担当することになり、その曲が決まったというメールを読んだのが、夫に対し酷い暴言を吐いた後の真夜中だった。

知らない曲名だったのでYouTubeで調べながら口ずさんでた二曲。

クリスチャン歴10年だなんて言っても、地雷を強く踏まれれば容易に怒り狂ってしまう私...あちらが踏んできたのだとしても、本来言ってはならないようなことを口走ってしまう私...は、全く無きに等しいような、いやむしろ存在しない方が良いと思えるような、大袈裟でなく自分に対しての絶望を覚えながら。

「...というか...そうだよ、そもそも、だから私はクリスチャンになったのだった...自分が取るに足らない者だと知っていたから...

今だってこんな世の中生き辛いと思えることばっかだけど、それだからこそイエスキリストの架けられた十字架に意味があったのだった...

そうだよ...お陰で救われるはずのない私が救われた。そんなことって...ある⁈涙」

そうヒシヒシ身に染みる思いで、誰かに聴かせるためでなく、ただその歌の中に入り賛美していたあの真夜中。歌い続けていたら並々と力を注がれていくのがわかった、真夜中。

聴かれていた。爆

実のところ、私は昔は歌手になりたくて、15から17まではボイストレーニングに通い、ナイトクラブで歌ったりインディーズのオムニバスCDに参加したりしたこともあった。東京へ受けに行き最終審査の通ったメジャーデビューの道は両親に断たれたけど、26歳で参加したギリシャ映画で幸運にも世界で活躍する歌手の方々と4曲も歌わせていただいたのは良い思い出。ウィーンに来てからも一度体験で教会歌手の方に歌を習いに行った。

でもだいぶ前から自分でもよく解っていたのは、私の歌は練習すればそれなりに音程やリズムを外さないから「無難」だけど、凄く優れているわけではなく、歌声を含めた歌の才能が目立たないこと。歌唱力を求められる場に、私が立とう挑もうとする意味は全くないと早い段階で察知してた。

だから本格的に歌手一本で、等というのはハタチ前には諦めた、というか「辞めた方が良い」と冷静に判断して脇に置いたのだった。

ウィーンに来てからなんて尚更、周りにすんばらしい歌手の方々ばかりだからねぇ。きっと判断は正しかったと思うし、プロの歌手の方々をただただ尊敬してる。

でも本当はもっと歌いたい、"私なりに"。とは、ずっと考えてきた。別にそれが大それた形じゃなくたって良い。でも歌おうとすればするほど上達するどころか、どんどん悪くなっていってる気がする自分の歌にゲンナリ。「歌が死ぬほど向いてないのかな...」と、長期に渡って歌わなくなる時期も繰り返しながら。

そして。

あの真夜中に、腑に落ちた。

その後の夫の言葉でまた、腑に落ちた。

プロフェッショナルとなれば「聴かせる歌」を歌う技術磨きや練習も絶対に馬鹿にできないはずだけれど、「歌ってそもそも...」に立ち戻れた。

歌に一致して、上手く歌おう等とせず歌えていた少女時代のように、あの真夜中は、いつぶりかに魂から歌っていたのだった。

喧嘩の原因には心底腹が立ったし深い悲しみに打ちひしがれもしたけど...「さっさと死んでしまいたい」と突発的にまた思ってしまったけど...今回のところは結果よければ全て良し?と、しとこうか...w

なんてことがあり、また、ぼちぼち歌いたくなりました。上手く歌おうとなんかせずに、ただ、魂が歌いたい歌を。特に賛美を、教会以外の場でも。一人でも。天に向かって。

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